雑巾になれ(菩薩行)

   少し仏教に興味を持っている方なら、仏様(といっても広義の仏様)は4種類に分類できることをご存じかと思います。

如来(これが狭義の仏です)

②菩薩

③天部

明王

の4種類です。

    中には、この種類に順位付けをして「如来」を最上位と説明する方もおられますが、密教的には上下はありません。導くべき相手に応じて一番ふさわしい姿であらわれるのが仏様だからです。

  

 実際、自分は真言宗の本山の一つ、東寺の境内にある洛南高校の出身ですが、校長先生は常々私たちに「如来」ではなく「菩薩になりなさい」と仰っていました。

 

 先ほどの順位付け的な説明では、如来は覚りを開いた方であるのに対して、菩薩は覚りを目指していまだ修行中の身ということで一段下に置かれます。しかし、そうではありません。菩薩は覚りを開いて彼岸へ渡ることができるにもかかわらず、迷える凡夫である私たちを全員彼岸に渡しおえてから、最後にご自身が渡ろうと誓われた仏様です。

  このように自利よりも他を利することを菩薩行といい、これを重視するのが私たち大乗仏教の特徴でもあります。

 

 といっても、当時、高校生の自分たちがそんなことをちゃんと理解できるわけもありません(その頃は自分が僧侶になるとさえ思っていませんでした)。

 そこで、先生が仰ったのが「雑巾になりなさい」でした。

 雑巾のように、自分は汚れてボロボロになっても、周りをピカピカにできる人間になりなさい、との教えです。まさしく菩薩行です。

 

 今は、菩薩行を言葉としては理解できるようになりました。しかし、実践できているかと問われると自信はありません。そこで、代わりに、自分の出会った「菩薩様」のお話をしようと思います。

 

 以前に先達をしていた頃のことです。西国三十三か所巡礼で、奈良のあたりの札所を一泊二日でお参りするコースでした。

 集合場所に行くと、かなり高齢のおじいさんがおられました(あとでうかがうと九十歳をこえておられる方でした)。正直、今回は大変だなと思いました。というのも、西国の札所は大きなお寺が多く、駐車場から本堂までの移動が長いうえに階段のあるところが多いです。その方は、足が弱く、耳も遠いようでした。ですので、目を離すことはできません。とはいえ他のお客様に先に行ってもらうようにすると、今度はその方たちが迷子になりかねません。

 どうしようかと悩んでいるうちに、最初の札所、壷阪寺に到着しました。早速、階段の多いお寺です。結局、他のお客様には先に観音堂へ行って待っていただくことにしました。

 自分は、そのおじいさんとマンツーマンです。手すりにしがみついて、一歩一歩階段を上っていかれます。いかにも辛そうで心配になり、表情をのぞきこんだのですが、不思議なことに、笑顔なんです。ついつい聞いてしまいました。

 「えらくうれしそうですね。どうされたんですか?」

 すると、こうお答えになられました。

 「今回、このお寺にこの来るのが一番のたのしみだったんだ。」

 他にも、色々と素敵なお寺があるのに、なぜここなのか、と思っていたところ、続けてこうおっしゃいました。

 「実は妻が白内障で、今度手術するんだ。」

 理解できました。「壺阪霊験記」で知られる壷阪寺は眼病にめっぽう効く観音様として知られています。この方は、奥様の目の手術がうまくいくように、との願いでお参りされていたのです。足もつらいと思います。おそらく長時間バスに乗っているだけでも苦痛だったと思います。それでも奥様の為に必死でお参りされていたのです。まさしく、菩薩行です。朝の集合時に、今日は大変だ、面倒くさいなとの気持ちがよぎった自分の事が恥ずかしくなりました。

 ありがたいことに、そのあとの札所では、他のお客様たちが交代で「今度は、私がおじいさんと一緒に行くから、先達さん、先に行って。」と言ってくださいました。そうすると先達の案内を聞くことが出来なくなるのに。今度は、他のお客様たちの菩薩行です。本当に心温まるお参りをさせていただきました。

 

 後日談です。

 自分はその後、そのおじいさんを案内することはありませんでした。ところが、別のお客様たちを滋賀、岐阜の寺(満願の回のコースでした)に案内した時に、別のバスでいらっしゃっていたその方にお会いすることができました。無事に満願を迎えられたことに安堵いたしました。そして、そのおじいさんの横には、奥様がおられました。無事に手術も終わり、お礼の気持ちで、満願の回を一緒にお参りされたようです。本当に嬉しい再会でした。

 

 自分たちは数珠を「外 内 外」の方向に擦ります(流派によってまちまちです)。修行中は「内 外 内」でした。修行中は「自分 他人 自分」の」比率で拝んでもいいが、阿闍梨になったのちは「他人 自分 他人」の比率で拝むようにとの意味があるとも言われています。100%利他に生きるのは難しいですが、自利よりも利他を優先できる僧侶でありたいものです。

 

※以前の薬師護摩での法話に加筆修正したものです。