越三昧耶

 越三昧耶(おつさんまや)とは、三昧耶の境界を軽んずる、或いは違越する罪で「越法(おっぽう)罪」とも言います。

 ピンとこないですよね。ここでいう三昧耶とは仏様との約束事という意味です。越三昧耶の内容には、色々とあるのですが(不平等な見識をもつことや、怠惰なども含まれます)、一般的によく言われるのは次のような意味です。

 

 『未灌頂の者に灌頂の大事を明かし、資格のない者に灌頂を授け、阿闍梨印可を得ずして聖経・口決等を読み、或いは修し、悉曇の伝授を受けずして梵字を書くなどの非法行為のこと(略出経など)』

 

 しかもその罪は殺人などの五逆罪よりも重いとされています(摂真実経・下)。

 

 要は、三昧耶戒を授かった僧侶は、特定の内容につき、ちゃんとした手順を踏まずに習ったり、教えては いけないということです。

 

 密教に興味を持つ方が色々知りたいと調べても、肝心のところから先の情報が得られなくなる理由もここにあるでしょう(印や修法を公開している方もおられますが)。

 

 しかし、これを厳格に守るとなると、自分が、先師さんたちが寺に残した次第(修法の段取りを記したもの)でさえ印可を受けずに見ることは許されません。

 誤って、見てしまった場合なら、罪を滅除する修法がありますが、たぶん確信犯には適用されません。うちの寺にも、見たことのない修法の次第が残されています。できれば、残していきたいですし、それ以上にどんなものなのか気になり、見たくなるのが行者の常(?)です。

 

 そこで、昨年、とある伝授を受けてきました。そこで授かってきたのが『惣許可大事(越三昧耶大事)』の印明です。文字通り、越三昧耶を免れる免罪符のようなものです。あまりに都合がよすぎるものだということで、浄厳和上(江戸時代の高僧)などは否定されていたようです。そもそも経軌(お経や儀式に関する書籍)にもないものだそうです(チート過ぎてゲームバランスを崩す裏技みたいな扱いでしょうか)。

 とりあえず、これで、うちの寺が昔からどのような修法をしてきたかについて調べたり、学ぶにあたり、少しは気が楽になりました。

 

 僧侶仲間でも、親切心からこんな修法をした方がいいよ、とやり方を教えようとしてくださる方がいらっしゃいます。たしかに興味をそそられますけど・・・。でも、ちゃんとした段取りを踏まないと越法になってまいますよね。

 まだまだ、自分にできることは多くはないですが、今の自分にできることを確実にしていくことで必要十分なのかなと思っています。

 

 在家の方でも、密教行者が結ぶ印を真似したい気持ちがあるかもしれません。自分もそうでしたし、今でも新しい印明(印と真言)を授かったときはうれしいです。

 

 でも、誰もが知っている印がありますよね。

 そう、合掌です(合掌にも色々種類がありますが、ここでは五本指を伸ばしてそのまま合わせる普通の合掌のことです)。

 

 仏教では左手が私たち衆生を、右手が仏様を意味します。ですから、手水場では汚れている衆生を示す左手から洗う、また数珠を持つのも、衆生を律する意味に左手なのだ等と説明されることもあります。

 つまり、合掌は、衆生と仏様が一体になることをあらわす、立派な印なのです。

 

 形だけ手を合わせるのではなく、心を静かにして仏様を近くに感じる、声を聞くように意識を整えることは意外と難しいかもしれません。

 どんなに日常に忙殺されていても、合掌する「贅沢な時間」は失いたくないものです。