そこにあるものを認識するのではなく ~「一水四見のたとえ」

 夏が終わり、僧侶にとって最大の「繁忙期」が終わりました。

 そして今は、様々な伝授会や講習会などが始まったり、再開したりする時期です。

 先日受講した密教瞑想法の授業で、面白い話がありましたので紹介します。

 

 密教の瞑想をするには、当時現代科学とは異なる、当時の仏教の思考を理解しなければならないというものです。

 そのひとつの例が私たちが「ものを見る」ということです。

 

 現代科学では、対象が存在しており、それを目という視覚器官によって捉え、それが信号として脳に送られて認識されるこが「ものを見る」ということになるのでしょう。

 

 一方で、仏教的には、認識されることではじめてものが存在する、というのです。

 

 ちょっと何を言っているのか分からないんですが、と仰るかもしれません。

 そこに「あるもの」が存在しているのだから、誰が見ても普遍的に「あるもの」が認識されるはずと思いますよね。

 でも、そうではないというのです。

 

 それを分かりやすく説いたのが「一水四見のたとえ」というものです。

 

 私たち人間は水を目にしたら当然「水」に見えます。

 しかし、魚にとっては「すみか」として映ります。

 餓鬼たちは「血膿」に見えます。

 施餓鬼の際にお話ししたように、餓鬼は口にしたものがたちまちに火に変わります。ですから、のどの渇きを癒すはずの水ですら、苦しみをもたらすものに映るというのです。

 一方で、天人たちには「瑠璃」に見えます。

 空を自由に飛び回る天人にとっては、キラキラと輝く水面が、美しい「瑠璃」に映るというのです。

 同じ水であっても、認識するものによっては全く異なるものとして存在するというたとえです。

 少し古めかしい表現があるのでピンとこないかもしれませんので、別のたとえも紹介します。

 

 「手を打てば 鳥は飛び立ち 鯉は寄る 女中茶をもつ 猿沢の池」

 同じ手を叩く音を聞いたとしても、鳥は驚いて逃げ出しますし、鯉は餌をもらえるかと思い、寄ってきます。そして女中さんはお客さんにお茶を持ってきてくれるというように、手を叩く「パン」という同じ音を聞いても聞こえ方は、聞き手次第というたとえです。

 

 よく、密教はもはや仏教ではないという方がおられます。

 皆さんの頭上にかかってる肖像画は「真言八祖像」というものです。そこにもお釈迦さまが描かれてないくらいです。

 でも、密教もれっきとした仏教です。

 ただ、「仏教」の定義づけが少し違っているだけです。

 

 以前にもお話ししたかもしれませんが、大切なことなのでまたお話しさせていただきます。

 最初の頃の「仏教」とは「仏であるお釈迦さまの教え」でした。

 次に「仏となるための教え」という定義が出てきます。

 そして、密教では「仏であることに気づく教え」となります。

 

 私たちの内部に、ちゃんと仏様がいるのです。

 「如実知自心」

 だから、自分の心の理解こそが、覚りへの近道なのです。

 

 そして自分の心をちゃんと理解してコントロールすることが大切だというわけです。

 心を「仏仕様」にできれば、この面倒な娑婆の世界も、一瞬にして浄土として映ることでしょう。ものすごい高難易度ですが………。

 

 でも、密教は、僧侶以外のものには何にも教えてくれないので何だかな・・・と思われるかもしれません。

 たしかに伝法灌頂を已えた僧侶でないとできない修法というものは沢山あります。

 しかし、在家の信徒さんでも密教の神髄を感じてもらえる方法も沢山あります。

 

 今回のように、護摩に参加していただくのもそうです。

 一心に炎を見つめ、真言や陀羅尼を唱えていただいているとき、日常の「人間としての価値観」というものがどこかへ飛んで行ったのを実感したのではないでしょうか。「仏仕様」あるいは「天人仕様」になったのではないですか。

 

 そして、寺に来なくても、いつでもどこでもできる方法が瞑想です。

 

 次回の護摩以降は、少しずつ密教瞑想についてお話、実践ができればと思っています。

 

※ 令和4年9月 薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

宗教と政治 宗教とカルト

 宗教と政治の関係について喧しくなっています。

 さらには、宗教とカルトの区別もせずに、鬼の首でも取ったかのように宗教を否定する短絡的な意見も見られます。

 

 まずは、宗教と政治の関係についてお話しします。

 たしかに、「よりよい社会」を作る為には、宗教の力だけでは限界もあるとして、政治の力を上手に利用するといのも方便としては有効なのかもしれません。

 

 悩んだ時には、原点に帰るということで、お釈迦様の立場はどうだったのかを見てみます。

 

 お釈迦様自身が、小国ながら釈迦族の王子様でした。しかし、その地位を投げ捨てて、仏道に進まれたのは皆さんもご存じの通りです。

 お釈迦さまの覚者としての素晴らしさが尊敬の源であったのは間違いないでしょうが、その生まれゆえに、王族などの身分の人から帰依を受けやすかったということはあると思います。

 実際に、ある国王からはある部族を攻めるべきかどうかといった政治的な相談を受けたりしていますが、やんわりとその部族の徳の高さを訴えることで制止するにとどめています。

 そもそも政治に口出しするのであれば、自分の母国である釈迦族の国の滅亡をどんなコネを使ってでも回避したはずですが、そうはされませんでした。

 

 では、宗祖弘法大師ではどうでしょうか。

 お大師様も、嵯峨天皇藤原北家といった方々と親しくされて、薬子の変の際に鎮護国家護摩を修したり、高野山などを下賜されたりといったように、政治的権力と上手に付き合ったことは否定できませんが、政策決定に口出しするような真似はされませんでした。

 

 政治は、ややもすれば「最大多数の最大幸福」こそが正義となりがちです。

一方で、宗教は絶対的平等こそが正義です。多数決で妥協点を探すものではありません。その点で両者に親和性は無いように思います。

 むしろ、宗教は政治と距離を置くことでその聖なる部分を守れるように思います。

 

 では、次にカルトと宗教の違いです。

 

 ヒントとして、仏教教団(サンガ)のルールである律をひいてみます。

 その中の一つに、出入りの自由があります。

 仏教の教団の中にも、少しずつ考えの相違があります。入ったは良いものの、どうもしっくりこない場合もあります。そのときには自由に抜けることができるのです。

 

 また、それと関連して、財産の自由処分があります。

 教団に入るにあたり、財産を教団に全て奉納しなければならないなんてことはありません。もちろん、それをするのは自由なのでしょうが、身内に分配したり、預けたうえで教団に入るということができます。

 財産をすべて取り上げられたのでは、実質的に脱退の自由が制限されますよね。

 

 どうですか。カルトの見分け方のヒントにならないでしょうか。

 

 本来、まっとうな仏教は自由に出入りできるものです。強制的に「料金」を徴収されるものでもありません。

 しかし、檀家制度こそが、その足かせになっているのではないでしょうか。

 もちろん、檀家を抜けることは可能なのですが、高額な離檀料による制約、寺院内の墓地を利用しているのであれば人質ならぬ「墓質」あるいは「骨質」による制約があり、簡単ではないでしょう。

 

 教団において、戒律を破った僧侶に対して厳しく処する理由の一つは「世間体」というものがあります。すごく俗な表現で不適当なのかもしれないですが、分かりやすいと思うので、そう表現します。

 仕事をせずに(労働すること自体が戒律違反です)、支援者(檀那)からの布施によってのみ生きている僧侶にとっては、「お布施を渡すに足る尊敬すべき」僧侶であることが必要なのです。そうでなければ、誰も支援してくれなくなります。

 そういう意味で、評判を落とす僧侶は駆逐しなければ、教団自体の存続に関わるのです。

 

 「檀家だから仕方ない」といって納めてもらう護持会費等によってのみ存立しているようでは本来の仏教の姿ではないでしょう。

 心から多くの方に応援していただけるような寺にできればと願っています。

 

※ 令和4年8月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

作務の大切さ ~ 周利槃特(しゅりはんどく)の覚り

 いま悉曇(一般的には梵字といった方が分かりやすいかもしれません)を習っています。自分にはもったいないくらいの高名な先生なのですが、あるとき、一向に見本を書いて下さらないのです。その日は実修のはずだったのですが、講義ばかりなんですね。

 すると先生がこう仰いました。

 「草刈りを頑張ったので、手がしびれてしまってます。もう少ししたら収まると思うのでしばらく我慢してください。」

 一般の世界では、クレーム事案になるのかも知れませんが、少なくとも自分は、こんな大徳が自ら草刈りをされていることに感激しました。

 

 草刈りや掃除といったものをまとめて「作務」といいます。作務衣の作務です。ネットで探すと高級な「おしゃれ作務衣」が見つかりますが、汚れることが前提の作務衣でおしゃれ作務衣というのも不思議な感じです。およそスポーツに向かない「おしゃれジャージ」というのもあるので気にする必要が無いのかも知れませんが。

 

 作務の重要さと言えば、周利槃特さんの話が定番です。

 この方の話には、色々なバージョンがあるようですが、メジャーな一つを紹介します。

 

 周利槃特はお釈迦さまのお弟子さんです。お兄さんと一緒に弟子入りしたのですが、非常に物覚えが悪かったそうです。ときどき、自分の名前すら忘れてしまうので、名札を首からぶら下げていたともいわれています。

 そんなこともあり、覚りに至るどころか、修行をするうえでも色々と苦労していました。周囲からも軽んじられたり馬鹿にされたりで、本人もあきらめかけていました。

 そんなときに、お釈迦さまは「塵を除く 垢を除く」という言葉とともに、一枚の布を渡し、ひたすらに寺の掃除に努めるよう言いつけます(ほうきとするバージョンの方がポピュラーです。また掃除するのも履物とするバージョンもあります)。

 

 生来、真面目な方なので、一生懸命掃除を続けるうちに、落とすべき汚れとは、貪、瞋 、痴という三毒に象徴される心の汚れだと悟り、すべての煩悩を滅して覚りに至ったというものです。

 

 どうでしょうか。納得できましたか?

 大体、こんなオチになっている話が多いのですが、自分はあまりスッキリしないのです。

 

 一方でこんなオチもあります。

 いくら掃除を続けていてもいっこうに覚りを開くことができない周利槃特さん。さすがに忍耐強いこの方も、こんなことで本当に覚りを開くことができるんだろうかと不安に思い、焦りも感じていました。

 そんなとき、部屋中をピカピカに磨き上げた直後、修行仲間がドカドカと上がってきて床を汚してしまいます。つい

 「せっかく今綺麗にしたのに、汚しやがって!」

と怒鳴りつけてしまったとき、ハッと覚りを開いたというのです。

 自分は、こちらの方が好きです。そして、先の話とこちらの話とでは覚りの内容が少し違うように思います。

 

 私たちの心は本来清浄なものです。私たちの中にはすでに仏が備わっています。ただ、それが煩悩などの汚れによって隠れているだけです。

 ですから、そうした煩悩さえ取り除けば仏となれるのです。

 これを、月と雲にたとえることもあります。

 たとえ雲によって深い闇であっても、月が無くなったわけではないです。雲さえ取り除けばそこには月が存在しているということです。

 

 ここまでが、最初のお話での覚りの内容です。では、後の話です。

 

 煩悩を完全に取り払うということは簡単なものではありません。

 そもそも、完璧な掃除というものは存在するのでしょうか。

 自分の中での「及第点」「妥協点」に達したところで折り合いをつけて、「完了」としているのではないでしょうか。

 そのことを否定しているわけではありません。当たり前のことです。本当の意味での完璧な掃除を目指したら、永久に掃除をし続けるしかないでしょう。

 さらには、掃除が完了したとしても、また汚れるわけです。自分が汚すこともあれば、他人によって汚されることもあります。

 煩悩は完全に取り除くことは出来ません。出来るかぎり「及第点」まで減らしたとしても、また少しずつ増えていきます

 

 煩悩をゼロにすることに執着してはいけない。ゼロにしようと努力することが大事。そして、煩悩が発生し続ける以上、それを減らそうとする努力には終わりがないということでしょう。

 どうせまた汚れるのだから、とあきらめてしまえば、ゴミ屋敷一直線です。慣れというのは怖いです。「及第点」がどんどん下がっていきますし、しまいには落第上等となってしまいます。

 

 赤塚先生の天才バカボンに出てくるレレレのおじさんは周利槃特がモデルだともいわれています。そもそも、バカボンという名前自体が仏や聖者を表す「薄伽梵」由来だともいわれていますし、パパの口癖の「これでいいのだ」もなかなか深いです。

 

 いつも「お出かけですか~」の声とともに、ほうきを動かし続けているレレレのおじさんは、心の掃除に終わりがないということを教えてくれる姿なのかもしれません。

 

 どんなに忙しくとも、「お出かけ」前には、仏壇に手を合わせて、心の掃除をしてから一日を始めてはいかがでしょう。

 

※ 寺報「西山寺通信」令和4年8月号の内容を加筆修正したものです。

 

 

 

 

胡瓜加持 令和四年版

 本日は胡瓜加持にご参加くださりありがとうございました。

 

 この科学万能の現代にあって胡瓜加持などと言う非科学の代表、宗教というよりも民間信仰のようなものは、もはや絶滅危惧種といえるかもしれません。

 そこで、今日は胡瓜加持の根拠というか、論理構成について少し触れてみたいと思います。

 

 突然、知り合いが「俺は神になる。」と言い出したら、どうしますか。

やばい奴だと思って、そーっと距離を置く方が殆どではないでしょうか。

 たしかに、神として祀られた人もいますが、どちらかとしいうと生前のその方への崇敬や畏敬から「神にされた」場合が多いのではないでしょうか。

 基本的に、神は自分たちと一線を画した存在で、崇め奉る存在ではあっても、目標とする存在ではないように思います。

 

 一方で「俺は仏になる。」

 こちらも、少し奇異に映るかもしれませんが、「覚りを目指す」と言い換えれば、何ら問題がないでしょう。

 

 そもそも、私たちの中には仏になるための「種」がそなわっています。

 「仏性」と呼ばれるものです。

 

 仏性は人間だけが持つものでしょうか。

 仏教が、インドに発生して大陸経由で日本にわたる間に、その地域の文化によって変化を遂げたことはご存じの通りです。

 

 仏性についても、「人間にのみある」から「動物にもある」となり、次には「植物にもある」となり、最終的には岩や山といった自然そのものにも仏性を認めるようになります。

 「山川草木悉有仏性」という考え方です。

 日本人は、古来より山や岩そのものをご神体として、そこに霊的なものを認めてきたので、必然的な流れだったかもしれません。

 

 ただ、仏性があることと、実際に仏になるということとは一致するわけではありません。

 

 たとえば、皆さんの中にもペットを飼っておられる方がおられると思います。

 ペットは家族ということで、亡くなったには葬儀をする方も増えてきましたし、人間なんかよりも丁寧に回忌法要を続けておられる方もいらっしゃいます。

 もちろん、ペットの成仏を願ってのことだと思います。

 しかし、仏教の宗派の中でも、さらには僧侶の中でも、ペットが成仏できるかどうかは一致していません。

 ペットに仏性があることは認めながらも、自力では覚ることができない以上、次に一旦、人間に生まれ変わったのちに成仏するほかないという考えも有力です。

 

 冗談みたいな話ですが、どんな人でも救ってくださるという阿弥陀様ですら「南無阿弥陀仏」と唱えられない動物たちは成仏できないんだという方もいます。

 それに対して、じゃあ、オウムに「ナムアミダブツ」という言葉を覚えさせてしゃべらせればOKなのか?と返す方もいたりして・・・。

 そもそも、浄土真宗さんの場合は、阿弥陀浄土に行くことは「成仏」そのものではなく、そのための修行に最適最高の場所に行くという意味なのですが………。

 意外と、ペットの成仏については難しい問題があります。

 

 ところで、今回用いた胡瓜には、不思議な「護符」をまいてあります。

 さらには、修法の中で結界を張り、「開眼」も行っています。

 

 平たく言えば、これらの作法で、胡瓜を「胡瓜菩薩」にしています。

 「菩薩」さんですから、利他行のエキスパートということです。

 私たちが苦しんでいる病を、身代わりに引き受けてくれるというわけです。

 

 こんなことに胡瓜を使ってもったいない。食べ物を粗末にして・・・という方もおられるかもしれません。

 もちろん、この胡瓜たちは「スタッフがおいしく頂きました」ではなく、土に還します。

 

 しかし、胡瓜に「身代わり」になって得られた健康な身体で、覚りを開く、とまではいかなくても、善行を重ねる、徳を積むということが出来れば、それは胡瓜の為に「身代わり」で修業してあげることになるのではないでしょうか。

 それは、決して胡瓜を無駄にすることではないです。

 

 ちなみに、ペットが、生まれ変わりを経由せずに成仏できるかにっいて自分の見解を述べておくと、自分は肯定しています。

 ペットの愛らしい姿や動作で、飼い主が、怒りを抑えたり、辛さを乗り越えたりしてしっかり生きることで、成仏させてあげることができると思っているからです。

 

 どうか、胡瓜の代わりに元気に、しっかりと生きて、胡瓜を「胡瓜如来」であったり、一層立派な仏様にしてあげてください。

 

※ 令和4年7月8日 胡瓜加持での法話に加筆修正したものです。

 

 

施餓鬼について 令和四年版

 本日は施餓鬼法要にお集まりくださりありがとうございます。

 毎年、同じような話になりますが、ご容赦ください。

 

 先日、葬儀をさせていただいた方の戒名に「乗」という文字を使わせていただきました。これは「大乗仏教」の「乗」です。迷いのない覚りの世界へ至る「乗り物」という意味です。

 大乗仏教の対義語は小乗仏教です。もっともこの呼び方は、大乗仏教側からのものです。一般的には「上座部仏教」と呼ばれる東南アジア方面の仏教です。

 私たちの仏教は「大乗仏教」です。

 文字通り、みんなで大きな乗り物に乗って、覚りの世界に行こうという仏教です。

 

 以前にも申し上げましたが、自分たちの数珠の擦り方は手前→むこう→手前です。

 これは自分→他人→自分を表しているいいます。すなわち、自分のことを2つお願いする間に他人のために1つお願いするようしなさいということです。

 自分たちが阿闍梨になったのちは一歩進んで、むこう→手前→むこうに擦るように言われました。今度は、自分のことよりも他人の為に祈るようにしなさいということです。なかなか、実践できていませんが。

 

 一方で、仏様は100パーセント他人のことを考えて行動されているわけです。

 皆さんのご先祖様は、ちゃんと成仏されていますからそういう存在です。

 その方々が、お盆ということで皆さんの元へ帰ってきます。

 その途中で、誰にも手を合わせてもらうこともできず成仏できずに苦しんでいる餓鬼さんのような存在を見かけたら、放っておけるわけがないですよね。

 「どうだい、もしよければ一緒に帰らないか。うちの子孫たちがちゃんとごちそうを用意して待っていてくれるから一緒に食べようよ。」

とかいって誘って帰ってきているのではないでしょうか。

 

 本来、お盆と施餓鬼は別々の行事です。

 実際、真言宗の僧侶はお盆に限らず、毎日施餓鬼をしています。

 しかし、一般の方々が、毎日施餓鬼をするというのは大変ですので、上のような感じでお盆に施餓鬼をくっつけたのが本当のところだと思います。

 

 今日は少しだけ、施餓鬼の作法についても少し説明したいと思います。

 餓鬼さんの絵を見たことがあると思います。

 痩せこけて、おなかがポッコリしてます。栄養失調のような姿ですね。

 食べ物にありつけないということなのですが、そもそも食べ物をとることができない体なのだといわれています。

 もう一度、餓鬼さんの姿を思い出していただけると、のどが細いことに気付くのではないでしょうか。

 餓鬼さんののどは細くて、食堂が針ほどの太さしかないといわれています。

 ですから、さきほど、餓鬼さんののどを広げる作法をしました。しかし、それでも大変だということで、「水の子」のように野菜を食べやすく細かく切って、さらにはのどを通りやすいように水をかけてあげているのです。

 皆さんが、先ほどやってくださった「水向け」というのは、餓鬼さんの為に、食事を食べやすくしてあげる作法だったのです。

 

 しかし、餓鬼さんは、自分のような醜い存在が、仏様に近づくのは畏れ多いと思っているようです。ですから、このお堂の中に入ってくることはできません。

 そのため、さきほど食事を庭までもっていきました。

 そして、背の低いとされる餓鬼さんのために、わざと低い位置に置いてあげたというわけです。

 このように、一つ一つの作法が、餓鬼さんをもてなすため、思いやりに満ちたものになっています。そして、皆さんも「水向け」をして協力してくださったわけです。

 

 先祖でも知り合いでもない餓鬼さんの為に、そのような施しをする行為こそ、大乗仏教が最も大切にしている100パーセントの「利他行」です。

 

 そのような姿を見て、仏様として先輩である皆様のご先祖様は、誇らしく、喜んでくださったはずです。

 だから、施餓鬼供養がそのまま先祖供養になるというわけです。

 

 今日は、皆さんのご先祖様を含めて、沢山の仏様が喜んでくださったはずです。

 もちろん、餓鬼さんたちも、単に一時しのぎでおなかが膨れただけではなく、未来永劫救われました。

 「法施」として、一緒に般若心経をあげていただいたのはそのためです。

 新しい仏様の誕生ともいえます。

 

 これを目的とするのはいけないのですが、施餓鬼は功徳が大きいとされています。

 誰にも手を差し伸べてもらえずに苦しんでいた餓鬼さんたちを、仏様にしてあげるというとんでもないことをするわけですから、当然と言えば当然なのかもしれません。

 

 今日は、そのような素晴らしい供養に、ご参加くださりありがとうございました。

 

※ 令和4年7月3日 施餓鬼法要での法話に加筆修正したものです。

 

 

より高い頂のために ~ どんな知識も無駄にはならない

 今日は、西山寺にお参りしてくださりありがとうございます。

 

 正直、お寺の屋根の素材がなんだとか、形が方形造だとか・・・興味のない人も多いですよね。

 いえ、それで普通ですよ。

 そんなことに、目を輝かせている小学生の方が心配ですから。

 

 ただ、こんなことを心にとめておいてください。

 

 皆さんも、小学生とはいえ高学年ですから、将来になりたいものだとか、目標だとかビジョンといったものがあるのではないでしょうか。

 その仕事に就くことができればそれで満足、というのではなく、できれば、その分野で一流になりたいと思っているかもしれませんね。

 

 それって、砂場で高い山を作ろうとするのと似ていると思います。

 既に、立体も習っているそうなので分るでしょうが、なるべく砂を使わずに、高い山を作ろうとすれば、直径の小さい円柱を作るのが効率がよさそうですね。

 

 でも、それではうまくいかないことを皆さんは体験として分かっているはずです。

 崩れますよね。水をかけて、急速に凍らせるとか、科学的な処理をするのは別ですが。

 

 結局、高い山を作ろうと思えば、それなりに大きな土台、すそ野を作ってあげないと駄目なんですよね。

 

 将来、希望の仕事や分野に進んだとしても、その分野の知識だけでやっていけるわけではありません。

 一見、その分野に関係ないような他の分野での経験や知識の支えがあってこそ、自分の専門分野で高みにたどり着けるのです。

 

 ましてや、みなさんには、今、思い描いているのとは別の未来が待っているかもしれません。

 むしろ、小学生の頃の夢がそのままかなう人の方が少ないでしょうし、もっと新しくて素晴らしい目標ができることも多いはずです。

 だからこそ、いまはどんなことにも興味をもって、なるべく大きな土台を作っておいてください。

 大人になると、あれもこれもと興味を広げて、土台を広げても、この牧之原のような台地くらいにしかならないかもしれませんが、皆さんには時間や選択肢がまだまだたくさんあるんです。

 

 今日は、このあとも色々なところを見学して、色々なことを学ぶはずです。

 今日の体験が、将来、皆さんが築き上げる大きな山の支えになることを願っています。

 

※ 地元小学生の、郷土を学ぶ体験でのあいさつに加筆修正したものです。

初心忘るべからず ~ どんな法務でも

 先日、僧侶紹介業者から、法務依頼の電話があったのですが、少し違和感があるものでした。

 「喪主さんと長く話をしてください。」

との指示があったのです。

 

 そこの業者の仕事は、ちょこちょこ受けているのですが、そのような指示があったのは初めてでした。

 

 少し、不安に思いながら、ご喪家に挨拶の電話を入れて、色々とお話をしたところ、理由が分かりました。

 

 実は、自分の前に、別の僧侶の方に依頼があったそうです。

 そして、その方から挨拶の電話があったそうなんですが、その対応があまりにビジネスライクすぎて、心が感じられないということで、NGを出したそうです。

 そして、代打が自分だったと・・・。

 

 その僧侶の方が実際にどういう対応だったかは分かりません。

 ただ、想像できる部分があります。

 

 まず、その法務の内容ですが、炉前読経というものでした。

直葬」という表現をすることもありますが、葬儀場などの施設を利用せず、火葬場のみで完結するものです。

 そのまま、火葬することもありますが、それでは寂しいと思い、せめて火葬炉の前で5分から10分くらいでもよいのでお経をあげて欲しいという方もおられます。

 それを、狭義の「直葬」と差別化して、業者によっては「炉前読経」とか「火葬式」と呼ぶようになっています。

 

 もちろん、場所と時間の制約があるため、できることは限られます。

 当然、引導作法なんかできるはずもありません。

 それでも自分は、お経以外に、戒だけは授けるようにしています。

 

 というのも、炉前であっても戒名を希望される方が多いからです。

 戒も授けずに、戒名だけ授けるというのもあまりに方便が過ぎると思います。

 

 そして、戒名をつける上では、事前に葬家に御挨拶をして、故人様のお人柄や生き様や趣味などを伺うことになります。

 檀家さんでもなく、場合によっては一期一会になる関係ですが、それでも、このお話をするおかげで、自分なりに故人様をイメージして、思い入れをもって葬儀をすることができるようになっていると感じます。

 

 ところが、今回は「戒名なし」というものでした。

 しかも、別の寺から戒名が授与されているので、その戒名を戒名紙に代筆して用意してこい、というものでした。

 

 こういうのは、ときどきあるパターンです。

 菩提寺はあるものの、遠方なので住職が来れない(自分だったら、どこでも行きますけどね)。

 そこで、とりあえず火葬の際には、どこぞの坊さんに「出棺経」程度のお経を唱えてもらう。

 そして、四十九日あたりの納骨の際に、菩提寺でしっかり法要をする(そして、しっかりもらう)という流れです。

 

 この場合、「主役」の菩提寺さんを押しのけるような発言や対応には気を付けなければなりません。

 

 長く客待ちした挙句に乗せた客が「超近距離」の客に当たったときのタクシー運転手さんのようにがっかりして「塩対応」をしたわけではなく、むしろ、気を遣って、話を手短にしようとしたのかも知れません(今は近距離でも快く対応してくれますけどね)。

 

 でも、それだって、経験とデータにとらわれた思い込みによるものにしかすぎないんですよね。葬家はあずかり知らないことです。実際に今回も、特に菩提寺さんがある方ではありませんでした。

 

 身近な人の死なんて、滅多にあるものではありません。

 人の死に立ち会うことが日常である僧侶と異なり、ましてや身近な人の死に接して、普通でいられる方はいないでしょう。

 それを、簡単に、このパターンはこんな人が多いから・・・というふうにカテゴライズして対応するのは失礼極まりないことでしょう。

 

 以前、高野山で役僧をしているときに、同僚の方から

 「(在家出身で)お経をあげて、お布施をもらって生きていけるというのは、ものすごいことなんだぞ。」

と言われました。

 

 実際、せっかく修行をして阿闍梨になったのに、僧侶として生計を立てることが出来ずに、一般の職に就いている人がたくさんいます(さっきの発言をした方も運送会社を立ち上げるとかいう噂)。

 

 はじめて、人の為に、お経をあげさせてもらったときの喜びを忘れてはならないと、自分を戒める良い機会になりました。