いま悉曇(一般的には梵字といった方が分かりやすいかもしれません)を習っています。自分にはもったいないくらいの高名な先生なのですが、あるとき、一向に見本を書いて下さらないのです。その日は実修のはずだったのですが、講義ばかりなんですね。
すると先生がこう仰いました。
「草刈りを頑張ったので、手がしびれてしまってます。もう少ししたら収まると思うのでしばらく我慢してください。」
一般の世界では、クレーム事案になるのかも知れませんが、少なくとも自分は、こんな大徳が自ら草刈りをされていることに感激しました。
草刈りや掃除といったものをまとめて「作務」といいます。作務衣の作務です。ネットで探すと高級な「おしゃれ作務衣」が見つかりますが、汚れることが前提の作務衣でおしゃれ作務衣というのも不思議な感じです。およそスポーツに向かない「おしゃれジャージ」というのもあるので気にする必要が無いのかも知れませんが。
作務の重要さと言えば、周利槃特さんの話が定番です。
この方の話には、色々なバージョンがあるようですが、メジャーな一つを紹介します。
周利槃特はお釈迦さまのお弟子さんです。お兄さんと一緒に弟子入りしたのですが、非常に物覚えが悪かったそうです。ときどき、自分の名前すら忘れてしまうので、名札を首からぶら下げていたともいわれています。
そんなこともあり、覚りに至るどころか、修行をするうえでも色々と苦労していました。周囲からも軽んじられたり馬鹿にされたりで、本人もあきらめかけていました。
そんなときに、お釈迦さまは「塵を除く 垢を除く」という言葉とともに、一枚の布を渡し、ひたすらに寺の掃除に努めるよう言いつけます(ほうきとするバージョンの方がポピュラーです。また掃除するのも履物とするバージョンもあります)。
生来、真面目な方なので、一生懸命掃除を続けるうちに、落とすべき汚れとは、貪、瞋 、痴という三毒に象徴される心の汚れだと悟り、すべての煩悩を滅して覚りに至ったというものです。
どうでしょうか。納得できましたか?
大体、こんなオチになっている話が多いのですが、自分はあまりスッキリしないのです。
一方でこんなオチもあります。
いくら掃除を続けていてもいっこうに覚りを開くことができない周利槃特さん。さすがに忍耐強いこの方も、こんなことで本当に覚りを開くことができるんだろうかと不安に思い、焦りも感じていました。
そんなとき、部屋中をピカピカに磨き上げた直後、修行仲間がドカドカと上がってきて床を汚してしまいます。つい
「せっかく今綺麗にしたのに、汚しやがって!」
と怒鳴りつけてしまったとき、ハッと覚りを開いたというのです。
自分は、こちらの方が好きです。そして、先の話とこちらの話とでは覚りの内容が少し違うように思います。
私たちの心は本来清浄なものです。私たちの中にはすでに仏が備わっています。ただ、それが煩悩などの汚れによって隠れているだけです。
ですから、そうした煩悩さえ取り除けば仏となれるのです。
これを、月と雲にたとえることもあります。
たとえ雲によって深い闇であっても、月が無くなったわけではないです。雲さえ取り除けばそこには月が存在しているということです。
ここまでが、最初のお話での覚りの内容です。では、後の話です。
煩悩を完全に取り払うということは簡単なものではありません。
そもそも、完璧な掃除というものは存在するのでしょうか。
自分の中での「及第点」「妥協点」に達したところで折り合いをつけて、「完了」としているのではないでしょうか。
そのことを否定しているわけではありません。当たり前のことです。本当の意味での完璧な掃除を目指したら、永久に掃除をし続けるしかないでしょう。
さらには、掃除が完了したとしても、また汚れるわけです。自分が汚すこともあれば、他人によって汚されることもあります。
煩悩は完全に取り除くことは出来ません。出来るかぎり「及第点」まで減らしたとしても、また少しずつ増えていきます
煩悩をゼロにすることに執着してはいけない。ゼロにしようと努力することが大事。そして、煩悩が発生し続ける以上、それを減らそうとする努力には終わりがないということでしょう。
どうせまた汚れるのだから、とあきらめてしまえば、ゴミ屋敷一直線です。慣れというのは怖いです。「及第点」がどんどん下がっていきますし、しまいには落第上等となってしまいます。
赤塚先生の天才バカボンに出てくるレレレのおじさんは周利槃特がモデルだともいわれています。そもそも、バカボンという名前自体が仏や聖者を表す「薄伽梵」由来だともいわれていますし、パパの口癖の「これでいいのだ」もなかなか深いです。
いつも「お出かけですか~」の声とともに、ほうきを動かし続けているレレレのおじさんは、心の掃除に終わりがないということを教えてくれる姿なのかもしれません。
どんなに忙しくとも、「お出かけ」前には、仏壇に手を合わせて、心の掃除をしてから一日を始めてはいかがでしょう。
※ 寺報「西山寺通信」令和4年8月号の内容を加筆修正したものです。