お気づきになられたと思いますが、今年から蓮を育てています。
おそらく蓮は、もっとも仏教を象徴する植物だと思います。
寺の中の荘厳にももいろいろなところに蓮がモチーフであしらわれていますし、うちのお薬師様たちは蓮の台に座ったり立ったりしておられます。
皆さんも、お浄土といえば、綺麗な蓮の池があって・・・というイメージがあるのではないでしょうか。
では、何故蓮なのでしょうか。
バラでもチューリップでもよさそうなものですが、それには意味があるとされます。
まずは、耳にタコ、という方も多いであろう「テンプレ」の話です。我慢して聞いてください。
一つ目ですが、蓮は泥の中に有っても、泥に染まることなく美しい花を咲かせるということです。
このことが、私たちが、この面倒くさい汚れた娑婆の世界に住しているとしても、気高く生きるべきであるという理想像を象徴しているというのです。
二つ目ですが、蓮は花を咲かせると同時に、もう実が出来ていることです。
これは、私たちには生まれたときからすでに仏性がそなわっていることを表しているというのです。
それぞれ、「淤泥不染の徳」「花果同時の徳」と呼ばれるものです。
この他にも、説明は省きますが、「一茎一花の徳」「一花多果の徳」「中虚外直の徳」を合わせて、「蓮の五徳」ともいわれます。
テンプレはここまでです。
ここからは、実際に、自分が蓮を育て始めて、気付いたことをお話ししていきたいと思います。
まず、蓮は泥の中で育ちますが、汚れた水の中で育っているわけではありません。
植え付けにあたり、栄養豊富な田んぼの土、荒木田土を買いました。農家の方から見ると、田んぼの土をお金を出して買うなんて滑稽かもしれませんね。さらには、水生植物用の肥料もブレンドしてあります。
つまり、蓮は「汚れた泥の中に有っても」ではなく、「栄養豊富な泥の中」だからこそ、きれいな花を咲かせるというのが正解です。
人間世界は、天人の世界よりも、苦労が多い分、悟りを開くための心の修行にはもってこいなのだともいいます。この試練も、仏様の下さった栄養ということでしょうか。
次です。
今回、自分はどうしても今年中に花を見たかったので、蓮根を植え付けました。
本当ならば、種から育てたかったです。
蓮は、何千年前の種でも、ちゃんと発芽して育つことで知られています。2000年前の古代蓮を開花させた大賀博士は有名ですね。
でも、蓮の種は、水につけただけではまず発芽しないそうです。
では、どうすれば発芽するかというと、少しやすりなどで傷をつけてあげればいいそうです。
人は、大きな挫折を経験したり、身近な人の死といった心の痛みを経験することで、仏性に目覚めるとまではいわなくても、大きく人として成長するということがあると思います。それと似ているのではないでしょうか。
自分はこれを「蓮の六徳目」に入れても良いと思います。語呂が悪いですけど。
色々知ると、ますます、蓮は仏教を象徴する花だと実感します。
ただ、実際の私たちは蓮ほど強くありません。
試練という名の肥料が多すぎて、「肥料負け」してしまいそうなこともあります。
そんなときには、自分は「生きている」のではなく「生かされている」のだと意識して、神仏に「すがる」のもありなのではないでしょうか。
自分が、暇があったら気になって、蓮鉢をのぞいているように、神様や仏様だって、私たち衆生のことが心配で、ちらちら見て下さっているに違いありません。
自分は、花をつけてくれるのを心待ちにしていますが、つぼみがついただけでも嬉しいですし、さらには、葉っぱが大きくなっただけでも十分に嬉しいです。
同じように、仏さまたちも、たとえ、なかなか花を咲かせようとしない衆生であろうとも、小さな成長ひとつひとつを愛情の目で見守ってくれているはずです。
今日も、お薬師様が絶対に味方してくれていると安心して帰ってもらえれば幸いです。