「祈り」となるためには

 先日、尊敬するご住職の法話を拝聴する機会がありました。その中でこのような話がありました。

「神仏の前で一生懸命お願いをするのは『祈り』ではありません。ただのお願いです。感謝の気持ちが伴って初めて『祈り』といえます。」

      

 以前、後輩の僧侶が知り合いの方の病気平癒の祈願をしようと思い、先輩のところに相談に行ったそうです。すると

「あんたが拝んでも験は出ないよ。」

とはっきり言われたそうです。

 言われた本人は、プンプンでしたが、先輩が言ったのは意地悪でもなんでもなく、理由があってのことです。

 

 それは、普段、行法をしていない僧侶が祈願をしても功を奏さない、と言われているからです。

 先輩は、その後輩が、常日頃ちゃんと拝んでいないのを良く知っていたのです。

 

 黙って陰で祈願をするのであればそれで良いのかもしれませんが、僧侶が、相手に拝んだことを伝え、祈願札でも渡すとすれば、相手の方は恩に感じたり、過度に期待したりするでしょう。それに値する祈願がなされたものでないとしても・・・。

 さらにお布施までいただいてしまっては、詐欺と変わらないでしょう。

 

 ですから、祈願をするためには、その裏付けが必要です。それが日々の行法です。そこで、仏さまたちに感謝して供養をして「仲良く」しているからこそ、ここ一番でお願いできる、という自信になっているのです。

 

 祈願だけではなく、葬儀のような「供養」でも同様です。

 

 最近では葬儀に初七日が組み込まれているのは一般的ですが、自分は式中四十九日なんていうものもやりました。しかも一日葬です。持ち時間四十分で葬儀+初七日+四十九日です。当然いつもとは異なり「ダイジェスト版」での葬儀です。

 日々の行法をやっていなければ、怖くて引き受けられませんでした。

 

 祈願や供養が成就するためには、日々の感謝が伴ってこそ、ということです。

     

 長々と書いてきましたが、「願い」を「祈り」にするには「感謝」を忘れなければよいのです。

 一日単位では「朝に礼拝 夕に感謝」です。

 お経を上げる時間が無いので無理、なんて思わないでください。

 仏壇の中にいらっしゃるのは、長らく皆さんを見守ってきたご本尊様と、先祖という、皆さんを「えこひいき」してくれる特別な仏さまです。

 朝は、「行ってきます」、夕には「一日無事に終わりました。ありがとうございます。」と心を込めて手を合わせるだけでも立派な「祈り」でしょう。

 

 一年単位では初詣や元朝参りで一年の幸せを願うばかりではなく、お礼参りがあってこその「祈り」だと思います。

 年末に向け忙しい時期にはなりますが、一年間お世話になった寺社にお参りするのはいかがでしょうか。

 特別な願いが叶ったのであれば、ことさらにお礼参りを忘れないようにしたいものです。

 

 また、一年間頑張ってくれたお守りやお札も、ため込んでしまうことなく、感謝の気持ちを込めてお返しするようにしたいものです。ゲームではないので、同じ社寺の御守やお札を複数持っていても、覚醒したり、「凸させ」たりできませんよ。

 

 祈る姿と願う姿は外見的には区別がつかないかもしれませんが、まったく異なるものです。いえ、よく見れば、区別がつきますね。

 

 一年に一度、下手したら一生に一度しかお参りしないお寺や神社で、時間をかけてたっばり「願い事」をしている方の姿と、毎朝、通勤や通学で通りかかる神社や寺の前で、「行ってきます」「ただいま」と、簡単でも心のこもった「祈り」をされている方の姿とでは、後者が断然尊く映りますね。

 神仏ならなおさらお見通しでしょう。

 

 量より質の、ちゃんとした「祈り」を心がけたいものです。

 

※ 寺報「西山寺通信」令和5年11月号の内容に加筆修正したものです。