リモート法要と運心(うんじん)

 先日、初めてオンライン法要というものを致しました。

 こちらからの話ではなく、自宅に伺って三回忌をする予定だった施主さんから、要望があり、それに応える形でした。

 自分の中では、これでもちゃんとした供養といえるのか、モヤモヤした気持ちであったのが正直なところです。

 真言宗の檀信徒の方ならお分かりだと思いますが、真言僧はお経を読む前に色々な作法をしていますよね。

 

 たとえば、護身法。

 密教の行法はお客様をお迎えして接待する作法になぞらえられます。

 そういう意味では、護身法は、ホストがお客様をお迎えするのにふさわしい姿になることです。身体、口(語)、意(心)の不浄を取り除き、慈悲の鎧で身を包むわけです。

 通常は、行者自身に対して行うのですが、病気の人の加持をする場合などは、その方に対しても行うことがあります。

 

 それに続いて洒水。散杖という木の棒で、水を振りまく作法ですね。

 こちらも、先ほどのようにたとえると、お客様をお迎えする部屋を清浄なものにしているわけです。

 

 このようなことをパソコンの画面越しで行っても、目的を果たせるのでしょうか。

 

 そんな中で、自分を納得させることができる方便として思い浮かんだのが「運心」という概念でした。

 

 「運心」とは、「観念を以て行うこと」をいいます。

 

 ひとつには、方角上の「運心」というものもあり、こちらは「随方」の対義語となっています。

 本来、お寺は南向きに建てられ、南に向いた仏様を北を向いた行者が拝むようになっているのですが(ご本尊などの条件で例外はあります)、古くからある大寺でもない限り、そう都合よく建っていません。拙寺も、ほぼ南向きではあるものの、正確には南西を向いてます。

 そういうときには、行者が「自分はいま○○の方角を向いている」と観念して修法するというのが、方角上の「運心」です。

 

 もうひとつは「行為における運心」です。

 たとえば、自分たちの修法をする次第書の中には、「これこれの印を結んで頭の上に置く」などと書かれていても、実際には胸の前で動かさずに、観念の上で頭上に置くだけ、とされていることがあるのがそれです。

 

 お遍路や巡礼に行かれた方なら、先達さんから「今日は風が強くて危ないので、灯明は実際にはつけずに、『運心』でお願いします。」と言われたことがあるかもしれませんね。夕方の遅い時間の参拝の時も、そのあとで火の始末をすることになるお寺の方の苦労を考えて「運心」で線香や灯明をそなえる巡礼者さんは粋です。

 

 「運心」を、文字通り「心をはこぶ、めぐらす」ことだと捉えると、その範囲には自ずと限界があるのかと思います。

 

 先ほどあげた護身法や洒水のあとには、結界を張る作法があります(回忌法要なんかでは省きますが)。

 要は、お迎えしたお客様(=仏様)との楽しい時間を邪魔されないようにするわけです。

 その結界の範囲は、初心なら壇の周囲程度。習熟するにつれて結界の範囲を広げていきます。すごい行者さんなら日本全体とか地球全体まで結界を張ることができるのかもしれませんが、自分はお堂全体か、せいぜい境内一杯しか観想できません。

 同じように運心の及ぶ範囲も、人それぞれなのかと思います。

 

 今回、自分がオンライン法要を承った施主さんの場合、自分が戒名をつけて葬儀もした方です。その後の七七日、初盆、一周忌とご自宅に伺って行いました。仏壇のある部屋も施主さんたちのお顔も声もハッキリとイメージできるケースだということもあり、受けたともいえます。

 

 一方で、先日ある僧侶の方から、その方の知り合いの家族の方の病気平癒の祈祷をしていただけないかとのご相談をうけました。

 それに対して、自分はこのようにお答えいたしました。

 「護摩の際に、祈願することはやぶさかではありません。しかし、祈願主の方が普段お付き合いもなく、どこにあるかもご存じでもない田舎寺の住職に祈祷してもらうよりも、普段からおつきあいのある貴僧が、一生懸命拝んであげる方が、その方にとってありがたく、験もでるのではないですか。」

 冷たい内容だったかもしれませんが、僧侶の方なら理解していただけるものと思いました。

 先日、その方からは、無事に祈願主が退院されたとの報告があり、安堵いたしました。

 

 朝夕の勤行では、祈願文として

 「至心発願 天長地久. 即身成仏 密厳国土. 風雨順時 五穀豊饒. 万邦協和 諸人快楽.

  乃至法界 平等利益」

とお唱えしており、言葉の上では、自分の手に余るとんでもなく大きな願いをしています。

 

 まずは、隣人に心をめぐらすことを怠らずに、少しずつ心のおよぶ範囲を大きくしていきたいと思います。