脇道を見る余裕を ~ 本当のタイパ

 今年も残り少なくなってきました。

 徐々に今年を振り返る、といった特集が組まれるようになってきますね。

 その中に、流行語大賞や新語大賞でしょうかなんてものもありますね。

 ところで、昨年の新語大賞の言葉を覚えておられますか。

 「タイパ」、タイムパフォーマンスでした。コストパフォーマンスの時間版といったところで、いかに効率よく時間を活用するかという「時間対効果」のことです。

 そんな難しいことを考えて行動していません、と思う方もおられるかもしれませんが、動画の倍速再生なんかもそれに当てはまりますので、無縁な方はいないでしょう。

 今日は「タイパ」に関したお話をしたいと思います。

 

 フェイスブックでも報告していますが、色々なところに「伝授」を受けに行っています。

 阿闍梨になるために高野山で「加行」という修業はしたのですが、真言宗でいう「阿闍梨」には住職資格くらいの意味しかなく、ようやく本格的な修業ができるという「資格」を得たにすぎません。

 

 実際、加行を終えただけでは、今日の薬師護摩はできません。そんなことは習わないです。正月の星まつりなんかはもちろんのことです。

 

 ですから、色々なニーズに応えるべく色々な講習や伝授を受けに行かせていただいています。もっとも、時間とお金の制約があるので、これぞというものに限ってとなりますが。

 

 以前に、後輩が、とある伝授に行きました。その伝授は、自分も行きたかったものでしたが、都合がつかずに諦めたものでした。そこで、感想を聞いてみました。すると、

 「あの先生、雑談ばかり。時間がもったいなかった。」

とのことでした。

 自分は、その先生の伝授が好きなので、意外な返事に驚き、やはりその伝授を受けられた先輩に、今回の伝授がいつもと何か違ったのか、と尋ねましたが、

 「いつもと同じだったよ。自分は、そういった伝授と直接関係ない話の方が、色々と役に立つと思うんだけどな。残念だな。」

と仰っていました。

 

 自分も同じ考えです。

 伝授をしてくださる先生方は、行者としては超一流の方々です。自分も、伝授内容以外の話のおかげで、迷いが無くなったり、ヒントを得たりしたことが少なくありません。また、別の機会にお話しすることもあるでしょうが・・・。

 

 せっかくの「お宝」を前に、雑談と切って捨てて、「時間の無駄」と文句を言う人こそが、タイパという点では、時間を無駄遣いしているのではないでしょうか。

 

「医王の目には途に触れてみな薬なり、解宝の人は鉱石を宝と見る」

 これは、お大師様の言葉です。お医者さんの目で見れば、道端の雑草も薬草と映り、宝石がに詳しい人が見れば、ただの石ころも宝石に見えるという意味です。

 

 薬草を見分ける目をもっているかどうか以前に、道端の草花に目も向けない人が多くなっているのではないでしょうか。

 

 私たちが一生の中で、見たり聞いたりできるものには限りがあります。この世のすべてのものが神仏が作ったものであるならば、無駄なものなどある訳はありません。

 一つたりとも、見逃すまい、聞き逃すまい、と思うことこそ、一生という時間の「タイパ」では大切ではないでしょうか。

 

 まずは夜空を見上げて月の美しさに感動してみる、野に咲く花を愛でてみる、鳥の鳴き声に耳を澄ます。

 そんな心の余裕を持つことが、効率的ではないかもしれないですが、時間を「豊かに」使うことなのは間違いないのだ思います。

 

※ 令和5年10月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。