本末転倒

 お坊さんの一日ってどんなものなのか、あまりイメージがわかないかもしれません。

もちろん、僧侶にも色々な形態(住職なのかどこかの寺で働く役僧なのかフリーなのか等)がありますので一概にこんなものと申し上げることは出来ません。

 

 ただ、共通項というか最大公約数的にやっていることとしては日々の勤行であったり行法と言えるのではないでしょうか。

 ただし、唱えるお経であったり修する行法の内容は、その行者さんによって様々です。

 「○○行者」といわれるような方々ですと、「○○」に入る名前の仏様に特化したお経や行法を毎日されていることでしょう。

 自分は怠け者ですので、毎日理趣経を中心とした勤行は行っていますが、ご本尊様や他にお祀りしている仏様の為の行は、縁日にしかやれていません。

 ごく簡単なものでは、後夜念誦という宝珠を本尊とする念誦法と施餓鬼くらいは欠かさないようにしているくらいでしょうか。

 

 ある僧侶の方の本の中で、先輩からこんなことを言われたと書いてありました。

「行を楽しくやっているようでは駄目。ただただ、やるものなのだというふうにやるのが理想。もちろん、仕方ないからといってやるのは最悪。」

 はじめ、これを目にしたときは「格好いいなあ」と思ったのですが、しばらくすると、楽しく行をやって、何が駄目なんだろうという疑問が出てきました。

 実際、自分が加行のときには、身体はきつかったですが、楽しくて仕方なかったというのは以前にも書いたと思います。今でも、どんなに体がしんどくても、面倒くさい懸案事項を抱えていたり、嫌なことがあっても、勤行や修法の間だけは幸せな気分でいられます。

 でも、別の僧侶の方の本にはこう書かれているのを見て安心しました。

 「自分が楽しくないでやってたら、目の前の仏さんだって楽しんでくれないだろう」

 

 先にもあげましたが、施餓鬼を日々やっている僧侶は多いようです。

 本当かどうか分かりませんが、施餓鬼は一度はじめたら、やめることは許されないとも言われます。そのせいか、義務的にやっている方もおられるようです。

 

 自分が本山の塔頭で役僧をしていたときのことです。

 寺に滞在されていた僧侶の方が外出先から電話をしてきました。

 「施餓鬼の生食(さば ※施餓鬼の為に自分の朝食や昼食から何粒かのご飯を取り分けておいたもの)をどこそこに置いてあるから、代わりにやっておいて。」

 ・・・・・・何かおかしくないですか。

 

 一方、別の方はやはり外出先で、施餓鬼をしないと駄目だと思うあまり、大阪の繁華街である戎橋(通称ひっかけ橋)の片隅で施餓鬼をしたそうです。他人に行を丸投げするよりは良いのでしょうか。でも、施餓鬼をできる場所って、結構条件があって難しいんですけれど(浄らかな土地でないといけません)。

 

 そういえば、拙寺にいらっしゃった僧侶の方でも、自分が法要の準備や後片付けで走り回っているときに呼び止めて「施餓鬼をしたいので、洗米と容器を用意してください。」とのたまった方もいらっしゃいましたね。それこそが供養すべき「餓鬼の心」だと思うのですが。

 

 やはり、目的、意義を置き去りにして義務感でおこなうだけの行は本来の姿ではないでしょう。

 

 昨今の葬儀ゃ法事の簡略化、さらに進んで省略化という流れもそのことと関係があるのでしょう。

 何のために葬儀をするのか、法事は何のためなのかをちゃんと伝えてこなかった僧侶にも罪があると思います。

 そして、葬儀や法事の場で、故人が喜んでいる姿をイメージしていただけるような法要をすることで、残された方々が安心する、晴れやかな気持ちになっていただくことができないと駄目なのだと思います。

 自分は「ただただそういうものなのだ」という達観した(?)態度で法事を執り行う坊さんではありたくないです。

 楽しい法事、というのは語弊がありますが、法事が終わった後に「やってよかった」「ほっとした」と思っていただけるように勉強していきたいと思います。

 

 皆さんも、最初から仏壇の前でしんどくなるような長いお経をあげる必要はないと思います。短い真言をあげるだけでも、ただ手を合わせるだけでも構わないです。大事なのは、故人やご先祖様や仏様たちが嬉しそうにされている姿を思い浮かべていただくことです。そうすると、自分も楽しくなってくるはずです。そこから、もっと喜んでもらおうと思って色々なお経や真言を足していくのも良いでしょう。

 仏事が苦痛であったり面倒なものであったりというのでは本末転倒な話ですから。