初心忘るべからず

 先日、知り合いの方から、無事に加行を終えたとの連絡をいただきました。

 

 真言宗の一番基本となる修行は『四度加行(しどけぎょう)』というものです。

 高野山真言宗では中院流によります。かつては高野山内にも色々な流派が伝えられていたようですが、今は阿闍梨となる儀式である伝法灌頂が中院流でしか行われていないこともあり、事実上、『高野山真言宗=中院流』となっています。

 

 『四度』という言葉の通り、四つのパートに分けて行います。

 最初に『十八道加行』といい、十八の印明を結び、仏様をお迎えして供養するという基本的な行法を学びます。

 次に『金剛界加行』『胎蔵界加行』と、それぞれ金剛界曼荼羅胎蔵曼荼羅の仏様方をまとめて供養する行法を学びます。

 最後に『護摩』で、お不動様を本尊とした息災護摩を修します。

 それぞれのパートは、その前に習ったことの復習をする『加行』と、新しくはじまる『正行(しょうぎょう)』からなっています。

 たとえば、金剛界のパートについてお話しすると、最初の14日間は前に習った十八道を修します。その間に金剛界の行法について、伝授阿闍梨様より伝授を受けます。伝授をうけてすぐにできるわけもありませんので、空き時間にやりくりして、次第に手を加えたり、どうしても分からないところは質問させていただいたりして準備をします。そして金剛界の正行を7日間修するわけです。

 つまりは、1つののパートにつき、14+7=21日間です。4つのパートがありますから、合計84日間。さらには四度加行が始まる前に、前行として『護身法加行』や『理趣経加行』等がありますから、約100日間というわけです。

 修行する道場にによりますが、一気にやるか、前期後期の二分割でやることが多いようです。

 

 前振りが長くなりましたが、この方の場合、途中で病気になったりしたこともあり、四分割で足かけ4年で行満されたそうです。ご本人としては大変だったと思いますが、自分にとっては少しうらやましかったりします。

 というのも、自分は一気にやったのですが、行を「こなす」ことに精一杯で、深く考えたり、しっかり理解して修することが出来なかったという思いがあるからです。

 

 仏様のいる世界を眼前に展開する『道場観』という観相なんかも、なかなかうまくイメージできませんでした(結構、細かく表現されているんです)。伝授阿闍梨様から、「本当にちゃんとイメージしようと思えば、(初心の者には)ものすごい時間がかかるだろう。だから、ある程度時間をかけたら完璧なものでなくてもそれでいい。」と言われ、甘えていました。そのほかにも、知識不足もあり、およそ「修した」とはいえない部分がありました。

 身、口、意の三密が揃ってこその密教なのですが、意密の部分がなかなかうまくいかず、前2者にあたる、正しく印を結び、真言陀羅尼を唱えるということの方に必死だったように思います。

 そういう意味では、今回満行された方は、じっくりと時間をかけて仕上げることが出来た分、さぞかし充実した行が出来たことと存じます。

 

 ただ、いろんなお坊さんと話をしてみると、自分と同じような思いをしている方のほうが多いようです。

 

 「どんな坊さんになるかどうかは、結局どんな加行をしたかで決まる」と仰る大徳も多いです。

 加行で手を抜いた人が、その後、心を入れ替えて真面目に行をするということはレアなのかもしれません。

 自分の場合、「上手に」加行をできたわけではありません。しかし、手は抜かず、その時点でできる全ての力だけは尽くしたつもりです。

 「促成栽培」で阿闍梨にさせていただいた分、その後にしっかりと泥臭く勉強しつづけていかなくてはならないということを忘れてはいけないでしょう。

 

 先日来、受講している高野山大学での「戒律講習会」のこと。

 受講資格は「已灌頂者(すでに伝法灌頂を受けた阿闍梨)」である必要はなく、「授戒を終えた者」でよいことになっていますが、参加している顔ぶれを見ると、いつもは教える側の大御所のお顔がちらほら。そんな姿に、一生、勉強なのだと教えていただいてます。

 

 伝法灌頂を終えて、ようやくスタート時点。

 自分の場合、その後にはじめて師僧に教えていただいたのが引導作法と理趣(経)法でした。

 初心に帰るべく、ここ数日は理趣法をさせていただいてます。以前に比べると、すこしは「修している」といえるようになってきたのでしょうか。