真言宗では、加行(けぎょう)という修行を終えて伝法灌頂を受けると阿闍梨となります。
「阿闍梨」という単語を聞くと、物凄い人のように聞こえるかもしれません。
しかし、真言宗では、「やっと一人前のお坊さん」になった、くらいの意味です。
※ 加行について興味のある方は、マンガで「本当にきついお坊さんの修行日記」という本が面白いかもしれません。
ですから、ただ阿闍梨になったというだけではあまり色々なことはできません。極端なことを言うと、葬儀すらできません。葬儀をするためには、「引導作法」の伝授を受ける必要があります。
別の言い方をしますと、阿闍梨になることで、はじめて色々な修法を学ぶ資格を得ることが出来るわけです。以前に「越三昧耶」で書きました通り、阿闍梨でもないのに色々な修法の伝授を受けると、授けた方も受者も大きな罪を得ます。
前フリが長くなりましたが、自分も機会を見つけては、色々な伝授を受けるようにしています。
ある祈祷系の大家といえる大徳(立派な僧侶の意)の伝授を受けたときの話です。
なかなか受けることのできない「不動金縛りの法」だとか「縁切り法」とか、希少な内容の伝授でした。昨年、寺で復活させた「胡瓜加持」も、この先生に教えていただいた「病封じ」を応用したものです。
その先生に、以前に教わった僧侶の一人がクレームをつけたことがあったそうです。
「習ったとおりにやったのに、効果が表れません。」
当たり前ですよね。坊さんにも「ゆとり世代」っていうのがあるんでしょうか。
自分も先輩に言われたことがあります。
「祈祷で験(加持祈祷の効果)をあらわすことができるのは、ちゃんと行をやっている坊さんだけや。」と。
別の伝授の時の話です。その中でやはり有名な大徳の方の話が出てきました。
その方のお寺はご本尊がお薬師様であることもあって、病気平癒の祈願をする方がたくさんおられたそうです。しかし、ご本人は
「ワシみたいなもんが、させてもろうてええんやろうか」
と仰っていたそうです。
自分も、その方の修法や教義に関する著作を読んで勉強させていただいているようなものすごい方です。そんな方が、ご自身の事を「修法するに足る人物か」厳しく見ておられたことに衝撃を受けました。
この話を紹介してくださった大阿さんは、修法する本人が祈祷の効果を信じていないような祈祷は百害あって一利なしと仰いました。そのうえで、先に挙げた先生のことを、ご自身については自信をもっておられなかったかもしれないが、仏様に対する信頼、信仰心はものすごかったとおっしゃっていました。
それゆえに多くの人が挙って祈願をお願いするだけの効果が表れていたのでしょう。
以前にも書きましたが、お大師様の定義によると「加持」とは仏の大悲(加)と人々の信心(持)から成り立ちます。仏様の陽光を信心によって澄み渡った心の水に映し出すことができてはじめて成り立ちます。
家電のように、説明書通りにセットアップしてスイッチを入れれば同じように動いてくれるというわけではないというわけです。
祈願主の信心と仏様の慈悲の心、それらをつなぐ行者はその瞬間、仏と一体となり仏そのものになることが求められます。そのためには信心はもちろんですが、それ以上のものが必要ですし、そのための裏付けとなるのが修行というわけです。
まだまだ、いえ、いつまでたっても「自分なんかがさせてもらってええんやろうか」と思い続けるのかもしれませんが、「プロ」である以上、努力し続けなければならないと思います。