もちろん、今日の主役は弘法大師です。
では、弘法大師が生まれたのはいつですか
詳しい方なら、宝亀5(774)年6月15日とスラスラと出てくるかもしれません。
お生まれになったのは香川県の屛風ヶ浦、いまの善通寺のあたりです。高野山などでは「青葉まつり」といってこの日には誕生祝いをしています。
では、亡くなったのはいつですか。
こちらも、即座に承和2(835)年3月21日とお答えになる方がいらっしゃるかもしれません。
残念ながら、日本史の問題なら正解でしょうが、真言宗的には不正解です。
はい、そうです。お大師様は「入滅」したのではなく、「入定」しているからです。
すなわち、お大師様は、全ての衆生を救うため、高野山の奥之院の御廟にて禅定(瞑想)に入られているとされています。
こんなことを言うと、非科学的でくだらないという方もいらっしゃるかもしれません。
実際、お上の公式の歴史書には、「朝廷の使者がお大師様の荼毘に間に合わず、何のお手伝いもできずに申し訳なかった」という記載や、弟子の実慧さんが唐の青龍寺に送った手紙の中で、「お大師様を荼毘にふした」という内容の記述があります。
しかし、こんな現代にあっても、真言宗の僧侶や信徒は、普通にお大師様はいまも生きておられると信じていますし、高野山で、一日二回お食事が運ばれているのはご存じの通りです。
さらに言いますと、四国遍路なんかでは、いまだにお大師さんに会ったという方もいらっしゃいます。
以前、坂東三十三か所霊場の先達をしていたことがあります。
その中のお客様の話です。
年配の女性の方でしたが、何回かご一緒するうちにに少しずつご自身のことをお話してくださるようになりました。
「私は、お寺にお参りしても、何のお願いもしていないんです。ただ、ありがとうございます、と感謝の気持ちを伝えているだけなんです。」
その理由をたずねると、このように続けてお話してくださいました。
「若いときのことですが、色々とあって四国遍路に出かけたことがあるんです。
目的は死ぬためでした。お金がつきるか、気力、体力が尽きたらそのときに……、くらいの気持ちで歩いてました。
あるお寺に立ち寄ったとき、そんな自分の気持ちを見抜いていたんでしょうね。そこのご住職がお金を渡してくれて、色々と言葉をかけて下さったんです。『死ぬな』とかではなく、もうちょっとがんばって歩いてみなさい、といった感じでした。
その後、ある山道を歩いていると、峠の辺りでたくさんの小さなお墓が目に入りました。『ああ、この人たちは、生きたくても生きられなかった人なんだな』と思いました。そして、この人たちのことを考えたら、もうちょっと頑張って生きてみようと思ったんです。」
その方は、看護師さんだそうで、災害なんかのときは、ボランティアでよくかけつけておられるとのことでした。
本当に感謝の気持ちで生きている方なのだと感じました。
四国を歩いていると、山中の遍路道には沢山の小さなお墓があります。ですから、それまでも、その方はその光景を何度となく見ているはずなんです。でも、そのときにはこんな気持ちにはならなかったんです。
よく、同じ景色を見ていても、心のありようで見え方が違うと言います。
この方の場合、ある住職との出会いで、心のありようが変わったために、見える景色が変わり、景色から感じるものにも変化があったのでしょう。
そういう意味では、この方にとって、このとき出会ったご住職こそ「お大師様」だったのではないでしょうか。
そして、災害ボランティアなんかで力を尽くしているときは、この方がだれかにとっての「お大師様」になっているのでしょう。
人は、その人の志を継ぐ人がいる限り生き続けます。
「ありがたや 高野の山の岩かげに 大師はいまだ おわしますなる」
これは鎌倉時代に、天台宗の慈鎮さんという方が詠んだものです。
この言葉を、少なくとも真言宗の信徒は、いまなお実感できているわけです。
裏を返せば、お大師様を近くに感じることができるというのは、この世がまだ捨てたもんじゃないということかもしれません。本当に終末的な、誰もが慈悲の心を忘れた非道な世界になったときにも、お大師様が「おはします」と言えるでしょうか。
よく自分は先輩たちから「真言宗」であっても「大師教」になってはいけないと言われました。
難しい言葉でいうと「教祖宗教」というのですが、教義をおろそかにして、教祖に対する盲目的な信仰ではいけないというのです。
具体的には、困ったときにお大師様にすがって奇跡を願うというレベルにとどまっていてはいけないということです。
お大師様が、願ったこと、やろうとしたことが早く実現するようにお手伝いをするということが、真言宗の信仰ということです。
お大師様の誓願にも色々ありますが、「済世利人」というのもその一つです。要は「世の為、人の為」です。
今日の御影供という日に、お大師様へのご恩に感謝するのは勿論ですが、お大師様がこれからも「おわします」よう、真言宗の末徒として誓いを新たにする日としたいと思います。
※ 令和三年御影供での法話に加筆修正したものです。