宗旨替えの前に

 うちは檀家寺ですが、決して檀家の数が多いとはいえません。したがって、依頼があれば、少々遠隔地でも法務を引き受けることがあります。

 

 最近も、「高野山真言宗」をご希望というご葬家さんということで、すこし離れたところで葬儀をさせていただきました。そこは、地域的に、真言宗でも智山派さんや豊山派さんといった新義真言宗の多いところでしたので、自分に白羽の矢が立ったようです。

 

 一方で、かなり前のことですが、ある葬儀社さんの依頼で引き受けた葬儀の話です。

 通夜の後、帰宅したところに葬儀社さんから電話がありました。何か、しでかしたかと不安に思い電話に出たところ、

 「申し訳ありません。あの後、親戚が集まって話をされているうちに、真言宗ではなく、(浄土)真宗だということが分かりました。」

 次の日は、ビミョーな空気の中で告別式を行いました。

 ただ、葬儀自体には満足していただけたようです。分家筋で新宅だったこともあり、49日に訪れた際には、真新しい真言宗の仏壇が用意されてあり、開眼させていただきました。

 

 自分の家の宗派を、○○宗だけではなく▢▢派まで理解されている方もいれば、葬儀のような場面になるまでご存じない方がいらっしゃるのも事実です。

 

 よく、「仏教にはいろんな宗派があるけれども、目指しているところは一緒。飛行機で行くのか電車で行くのか車で行くのかの違いだよ。」と仰る方がおられます。

 たしかに、おおむねはその通りなのだと思います。

 しかし、それぞれの宗祖の方たちが、命懸けでそれぞれの宗派を立ち上げたことを忘れてはいけないと思います。

 より多くの人を救うためには、旧来のやり方では駄目だということで、場合によっては弾圧をうけ、命の危険にさらされても、布教を続けてきたわけです。

 「教相判釈」といって、いかに自分の宗派が優れているかを主張するだけではなく、バージョンアップもしてきたわけです。

 さっきの乗り物の話でいうと、いかに安全に快適に多くの人を覚りの地に運ぶことが出来るかということを考えつづけて、いまの色々な宗派が存在しているわけです。

 

 自分自身は、先祖代々の宗旨を変えることは構わないと思っています。

 むしろ、仏教や様々な宗派のことを学んだ人こそ、自分はこの考えに賛同できない、納得できないという部分が出てくる可能性が大きいからです。そして、納得できない宗旨を信仰をするのは苦痛でしょう。

 先祖代々の宗旨だからと割り切って、深く考えずに信仰するのも間違いではないでしょうが、本当の信仰が生まれるのかどうか。なんかもったいないような気がします。

 

 以前にも書いたと思いますが、自分が真言宗の僧侶を目指したときに、歩き遍路で出会ったミャンマーの僧侶の方から「まずは色々な宗派を勉強しなさい。真言宗は取扱いに注意しないといけない宗派だから、近視眼的な視野ではいけないよ。」とアドバイスをいただきました。

 結果、十分ではないにせよ、他の宗派を学ぶことで真言宗の「ウリ」みたいなものがはっきりして、納得した上で真言僧になったことはよかったと思っています。

 

 まずは、先祖代々の宗派について学んではいかがでしょうか。

 ご先祖様たちが、どんな思いで、何を願って仏様と対峙していたかを知ろうとするだけでも大きな供養になることでしょう。

 菩提寺さんがある方なら、どんどん聞いてください。本来、坊さんの一番の仕事は葬儀をすることではありません。むしろ、そのような話をしたくて仕方ない人が坊さんをやっているはずです。

 

 どうしても納得できない、満足できないというのであれば、宗旨替えもやむを得ないでしょう。自分が心豊かに生きる上で、よりよい教えが見つかったというなら、むしろそれは本当に幸運なことでしょう。

 

 最近は堂々と「無宗教」を称する方も多いです。憲法上の信教の自由には、信仰をしない自由も含まれているように、もちろんそれは構わないと思います。

 しかし、今以上に、自分の努力ではどうにもすることができず、宗教のような見えない何かに心からすがるよりほかになかった時代の先人たちの心を理解して、尊重する努力は忘れてほしくないと思います。