前回、IQに関するお話をしました。退屈かもしれませんが、今回も似たような話です。
自分が、自分の知能指数をはじめて知ったのは小学校三年生のときです。
とある学習塾の入塾試験の際に測定されました。試験の後、塾長なのか、校長を退職して「天下り」といった感じの老先生との面接でいきなりこう言われました。
「こういう子が、受験で一番失敗するんですよ。」
なかなかの先制パンチでした。
続けて理由を仰いました。
「これまで、大して努力しなくてもいい成績だったでしょう?でも、これからはそうはいかないよ。努力しなくても勝ち抜けるほどの知能指数ではないから。そして、今まで苦労せずに点数が取れてきただけに、努力をする癖がついていないでしょ。だから、受験で失敗しやすいんだよ。」
小学三年生にはなかなかハードでした。親はそれ以上だったかもしれませんが。
当時は、今のように塾が乱立しておらず、また少人数制なんていうものもほとんどありませんでした。自分の入った校も1学年に30名10クラス以上あったと思います。そんなメンバーの中には、半端た努力をしたところで自分には到底、歯が立たないであろうIQ160前後の「本当の天才」も何人かいました。
そこで、自分のパラメーターに気付いてもっと努力すればよかったのでしょうが、中学受験の結果は大先生の予言通りになってしまいました。
さすがの自分も、その後は目的達成から逆算した最低限の「必要十分な」努力をするようになったように思います。
つくづく「努力も才能」なんていう方もおられますが、その通りだと思いますし、自分にはその才能が足りないようです。
くだらない自分語りが長くなり申し訳ありません。ここからが本題です。
私たちにとって、この世での「合格」というのは「覚り」ではないでしょうか。
「覚り」などという単語を使うと、高尚過ぎて必要以上に手の届かないものに感じてしまうかも知れません。また、宗派や説明する方によって定義も異なってくるでしょう。
そこで、ここではとりあえず真言宗的に「即身成仏」と定義しておきましょう。
「即身成仏」とは、死んで仏になるのではなく、生きたまま仏になるということです。
それは決して不可能ではないというのです。何故ならば、私たちも仏様も「構成物質」は同じだからです。
仏様と同じような素晴らしい行動をとり、仏様と同じような優しい言葉を用い、仏様と同じように慈悲にあふれた気持ちでいられたならば、もうそのままで仏様になっているというわけです。
ただ、口で言うほど簡単なことではないです。
唐の詩人として著名な白楽天さんが、徳の高い禅僧(鳥窠禅師)に、仏教の要は何かと尋ねたところ
「悪いことをしないで、善いことをすることだね(諸悪莫作 衆善奉行)」
と言われ、少しがっかりして
「そんなことなら、3歳の子供でも分かることじゃないか。」
し返したところ
「その通り。3歳の子供でもわかるのに、80歳のじじいになってもなかなかできないことだよ。」
と言われて感心したという話のようなものです。
体、口、気持ちの「身口意」を仏様と同じように扱うことができると「三密」(最近では、異なるネガティブな意味に使われていますが)になりますが、十善戒のタブーに触れるように、使い方を誤ると「三業(さんごう)」となります。
仏様は当然のことですが、「純度100%」の仏様なので、努力も意識もしなくたって仏様の振る舞いが出来ます。
一方で、私たちは、「鬼と仏が混在する」存在ですから、意識して努力しないと仏様の振る舞いができません。鬼の振る舞いが前に出ることもあります。ただ、「仏様の成分」がある以上、努力さえすれば仏様として振舞うことができるのです。
ちなみに、私たちと仏様の間には「天部」という、いわゆる天人の世界があります。
天人の世界は、美しく、苦労も少なく、過ごしやすい素敵な場所だそうですが、そこがゴールというわけではなく、寿命が来るとまた別の世界に行かなくてはならないそうです。そして、人によっては、人間世界よりも苦労が少ない世界であるために、覚って仏様の世界に行くのは、人間よりも難しいと言います。努力する癖が身につきにくいということかもしれません。
私たちの人間世界は、面倒くさい世界です。嫌なことも、嫌な人もたくさんいます。そんな環境で、仏様のように振舞うには並大抵の努力では難しいです。
よく「やればできる子」なんて言います。
人間界の住人である私たちはみんな「やればできる子」のはずです。
たしかに、生来的に仏の成分が多い人もいれば、鬼の成分の多い人もいます。さらにはおかれた環境もバラバラです。「金持ち喧嘩せず」なのに対して、過酷な環境では心穏やかに過ごすことすら難しいでしょう。そういう意味では、難易度はまちまちです。でも、決して「無理ゲー」ではないのです。
「やればできる子」にも色々のパターンがあります。
「やってできている子」「やっているけど(まだ)できていない子」「やらないからできない子」「やろうとすらしていない子」・・・・。
仏様は、私たちが仏になることも嬉しいですが、それ以上に「菩提心をおこす」ことを喜ばれると言います。「仏様目指してがんばります」と決意することです。
正直、仏様も、私たちなんかが「成仏」を簡単に達成できないことを分かっておられるのでしょう。
だから、決意して、失敗して、反省して、また決意して・・・という私たちの努力そのものを評価してくださるのでしょう。そういう意味では、点数のみで合否を決められる受験よりも努力の甲斐があります。
オン ボウジシッタ ボダハダヤミ (私は 菩提心を 発こします)
三昧耶戒真言
オン サンマヤ サトバン (私は 仏様と 同じ境地にあります)
是非、勤行の際にお唱えして、目の前にいらっしゃる仏様と、自分の中にいる仏様を喜ばせてあげてください。