聖地は自分で創るもの

 かつては「聖地巡礼」といえば、四国のお遍路さんや西国巡礼、海外ならばフランスからスペインにかけてのキリスト教の巡礼であるサンティアゴ・デ・コンポステーラなどをイメージする方がほとんどだったと思います。

 

 しかし、現在では、ネットで検索しても分かるように、漫画やアニメの舞台やモデルになった場所をファンが訪れることを指すことの方が一般的になりつつあるようです。

 かくいう自分も、秩父音霊場を巡った際には、「あの花」の聖地である17番札所である定林寺さんが一番テンションが上がってしまいました。何せ「聖地×聖地」ですから。

 

 静岡でも沼津が「ラブライブ」の聖地として、観光として成り立っていたりします。

 寺のある牧之原周辺も無縁ではないらしく、「ゆるキャン△」というアニメの影響で御前崎灯台周辺や掛川のカフェが「聖地」として認知されているようです。

 

 牧之原についても「DR.STONE」という漫画で相良油田が登場していますので、アニメ放送の後は「巡礼者」が多く訪れるのかもしれません(第三期に期待です)。

 

 アニメや漫画を見ていない、見ていても魅力を感じていない人にとっては、何の変哲のない場所が、特定の人にとっては聖地になる訳です。

     

 人は、同じ景色や出来事に遭遇しても、見え方や感じ方はそれぞれです。それは、私たちが感覚器官だけで見たり聞いたりしているのではなく、「識」という心のフィルターを通して見聞きしているからとされます。

 

 お大師様のことばに「医王の目には道に触れて皆薬となる」とあります。医学の知識のある人にとっては道端の雑草であっても薬草となるということです。続けて知識のある人にとっては路傍の石でも宝石となるとも仰っています。

     

 この娑婆の世界が苦に満ちていることはお釈迦さまの説いておられる通りです。それを世俗的な楽しみで上書きしたり、相殺しようとするのではなく、視点を変えて、「聖地」にしてしまおうというのが仏教ではないでしょうか。

 

 真言宗では、大日如来のいらっしゃる仏の世界を「密厳浄土」と言います。

 この浄土の定義づけも色々です。「こことは違うどこか」という意味で使われる場合もあるのですが、「この娑婆の世界も含めた世界」という意味で使うこともあります。 

 こんなめんどくさい、醜いものに満ちた世界のどこが「浄土」なんだ、と思われるかもしれません。

 

 六道輪廻する世界は「天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄」です。

 天人の世界なら、「ほぼ浄土」と言えるかもしれませんが、天に生まれてもゴールではなく、寿命がくれば、またどこかに転生しないといけませんから、修行をする必要があります。

 しかし、天の世界は満ち足りているので、修行するには向いていない「ぬるま湯」環境だという方もいます。

 

 その点、人間の世界は蓮の花に彩られ、天女が飛び回る世界ではありませんが、心を鍛錬するにはもってこいの最高に面倒くさい場所と言えます。

 

 よく「人生は遍路なり」なんていいます。

 自分も、四国遍路は、区切り打ちですが、歩いて二巡しています。興味のない方にとっては、わざわざ、お金も時間も体力も使って馬鹿馬鹿しいことを、と思うかもしれません。しかし、経験のある方なら分かると思いますが、何とも言えない喜びがあるんですよね。

 

 この面倒くさい娑婆の世界も、仏の世界の一画に作られた、修行に特化した「聖地」と思えば、楽しくはならないにしても、少しは楽になるかもしれません。

 

※ 令和三年五月刊 寺報『西山寺通信』の内容に加筆修正したものです。