不両舌

 今日も十善戒の続きです。

 言葉に関する戒の最後に出てくるのは「不両舌」です。

 

 よく、文字通りに「二枚舌を使わないこと」と説明されていることもあります。

 しかし、実際はそう単純ではありません。

 ある人にはAと言い、別の人にはBと言うことにより、仲違いさせることがNGという意味です。

 

 人の和合を乱すような言葉を使うな、といった方が良いかもしれません。

 つまり、この戒が目指すところは、人、さらにはあらゆる生命の和合、調和です。

 そして、その前提として、あらゆる生命の平等を忘れてはいけないということです。

 

 ただ、この「平等」という言葉は曲者です。

 たとえば、平等といっても「機会の平等」なのか「結果の平等」なのかでは大きく意味が異なります。

 学校の運動会なんかでも、徒競走で順位をつけずに「みんな一位」なんてことがあると聞きました。これは結果の平等ですよね。運動会だけは輝けるチャンスと思っている子にとっては迷惑な話です。

 スタートラインを同じ位置にして、公正にレースをしたうえで順位付けするのが、「機会の平等」ということですね。

 

 ところで、先日、確定申告をしたかと思ったら、今度は固定資産税、次に自動車税ですよね。

 税金の目的の一つも「所得の再分配」という名の「平等化」です。

 たとえば、確定申告では累進課税方式で、高所得の人には高い税率で税金を納めてもらい、それを福祉や公的扶助にまわすことで、貧富の差を縮めているわけです。

 日本の場合は、スタートラインにすらつけない人や、後方からのスタートになる人の位置を前にずらしてあげるという程度の「機会の平等」といえるのではないでしょうか。

 海外の国には、累進課税の比率が大きかったり「贅沢税」をしっかりとるなど、高所得者には厳しく、社会福祉がものすごく充実しており低所得者に手厚いところもあるようですが、このようなことを極限まで突き詰めて貧富の差を無くしてしまうというのなら「結果の平等」ですね。

 ただ、こういう国では、向上心や労働意欲がそがれてしまう弊害もあるようです。赤の他人の為に苦労して働くなんてあほらしくなるんでしょうね。

 

 平等の反対の言葉は何でしょうか。「不平等」というのは無しにしてください。

 「差別」が思い浮かんだ方もいるのではないでしょうか。

 「差別」というとネガティブなイメージがつきまといますが、仏教での「差別」はそうではありません。仏教では「しゃべつ」と読みます。

 それぞれの人や物の個性をちゃんと評価、考慮するという意味です。

 

 慈雲尊者は

「山を削って、谷を埋めてまっ平らにするなんていうのは平等ではない」

と仰っています。

さらには

「山は高いからこその平等である。海は深いからこその平等である。」

とも仰っています。

 

 平等が間違った方向に使われて、みんなと一緒、同じでないと生きづらい社会になってはいないでしょうか。

 平等の押し付けで、相手の個性まで否定することになっていないでしょうか。

 

 「みんな一緒に仲良くしましょう」というよりも、「みんなバラバラだけども仲良くできる」のが仏教者が理想とすべき世界だということなのでしょう。

 

※ 令和三年五月の薬師護摩での法話に加筆修正したものです。