先日、知り合いの僧侶の方から無事に「教師検定試験」に合格したことを報告してくださいました。
「教師」とは、平たく言えば住職資格のようなものです。
四度加行を終えて、伝法灌頂を受けると「阿闍梨」となります。専修学院や真別所のような集団加行の道場で加行を受けた人は、オートマチックに教師資格も得るのですが、個人加行ですと、本当にちゃんとしたレベルに達しているか怪しい人もいるということで、別途、教師試験を受けなくてはなりません。
実際、「本当にやったの?」という方も見受けられます。あまりにもひどい方は「不合格」であったり、「師僧預かり」(もう少し上手くなったと師僧が認めたときに渡す)だったり、合格通知書に「まだまだ人前でやらないように」といった、自動車免許の「眼鏡限定」の但し書きのようなものが書かれたりするそうです(都市伝説かもしれませんが)。
少し前には、ときどき寺を手伝ってくれている方が、無事に「権教師」になられたことを報告してくださいました。
「教師」と「権教師」。似ていますが、「権」とは「仮の」という意味ですので「権教師」のできることは教師に比べると限られています。
今回、権教師になられた方に聞いたところ、「加持祈祷」の印可は出たものの、授かった作法は「開眼作法」くらいだったようです。それでも、「資格としては」回忌法要などで十分勤めることができますが、もちろん葬儀などはできません(残念ながら「無許可営業」の方はいらっしゃいます)。
「仮りの」という意味の「権」の対義語は「実」です。
「実」と「権」では、「本物」である「実」の方が「格上」に決まっていると思うかもしれません。
しかし、例外もあります。
神様(天部)には、権実二類があるといいます。つまり、仮の神様と、本物の神様がいるというのです。
仮の神様と本物の神様なら、本物(実類)の方が「偉い」と思うかもしれません。
そもそも神仏にランク付けするのがナンセンスなのですが、一応ランク付けをすると仮の神様である「権類」の方が上になります。
なぜならば、本当は仏である(本地仏といいます)存在が、衆生を救うのに適した姿として仮に神の姿をとっているだけだからです。
余談ですが、そのような神様(天部)をお招きして修法するときには、必ず本地仏として扱わなければならないともいわれています。
よく似た用語で「権現」さんなんていうものもあります。
ほぼ、同じなのですが、「権現」の場合、「仏が神の姿を借りて」という場合よりも広く使われているようです。たとえば、有名人や怨みを残して死んだ人たちを「権現」さんとして祀る場合です。
徳川家康の「東照大権現」もそうです。一応、「本地仏」としての薬師如来が神の姿をとったという「本来の」意味もあるのですが、神仏が戦国乱世を終わられて平和をもたらすために、仮に人の姿をとって現れたのが徳川家康であるから、そこをもって「権現」とする考え方もあるようです。
実際には、「明神」にするか「権現」にするか、天海さんと崇伝さんの権力争いの結果にすぎないのかもしれませんが。
人が神仏の化身なんて、なんて不遜なと思われるかもしれませんね。
でも、私たちは仏性をもっています。そういう意味では「権類の人」といえるかもしれません。
「実類の人」として、欲望のまま人間世界を謳歌するのも良いかもしれません。
しかし、自分がこの娑婆の世界を「浄土」に変える使命をもって生まれてきた、特別な存在である「権現さん」と思って生きるのもいいのではないでしょうか。