不惜身命

 以前に、尊敬するお坊さんとして高校受験の時に祈願してくださった方の話を致しました。ちょうどそのころから、他に尊敬する人物として、自分が名前を挙げるようになった方がいます。

 

 山口良忠という方です。

 自分が法律の道を目指そうと決めた時期、母親からこんな偉大な裁判官がいたんだよ、と教えてもらいました。

 

 この方は太平洋戦争中から戦後まもなくまで、裁判官をされていた方です。敗戦後、食糧難で、食糧管理法に基づき配給制がとられていました。氏はその食糧管理法違反の事件を多く扱っていたそうです。しかし、実際には配給による食料だけで生きていくことは困難であり、多くの人は闇市などで違法である食料(闇米)によって生きていたそうです。氏は取り締まる立場の自分が闇米を食すわけにはいかないということで、配給の食料だけしか口にされなくなります。心配した奥さんの実家から食料が届いても、誰もが同じように食料が手に入るわけではないといって、それらも口にされなかったそうです。そして、徐々に衰弱され、最後は33歳の若さでこの世を去られました。

 ご自身の仕事への信念、良心のために命をかけられたことに対して感動を越えて、衝撃を受けました(もっとも、いつの時代も同じなのか、工夫や努力が足りなかっただけだ等の中傷も多かったようです)。

 大学の授業で、先生(のちに最高裁判事も務められた奥田教授)が氏の話をされたときに、自分の先輩であることを知った時はすごくうれしかったのを覚えています。今は、法は法でも、もっぱら「仏法」にかかわっていますが、尊敬する気持ちに変わりはありません。

 

 普段、仕事において命の危険がある方というと警察官や消防士、自衛官…。ほとんどの方は「不惜身命」で働いてるといっても、現実として命の危険を感じることのない職業ではないでしょうか。

 しかし、今、医療従事者はもちろん、流通業や小売業など不特定多数の方と接客しなければならないような方までもが命の危険の中で働いておられます。本当に感謝しても感謝しきれません。

 「わかったようなことを言いやがって。命をかける仕事があるだけいいじゃないか。こちらはその仕事がないから命の危険があるんだ。」という方もおられるでしょう。まさにその通りかと思います。

 ですから、「コロナ禍での勝ち組、負け組業種」などという記事のタイトルを目にすると頭に来ます。この期に及んでも、儲けることが正義ですか?勝利者ですか?今って、痛みを分かち合う時ではないのですか。この状況が長引けば、勝ち組なんて居なくなりますよ。全員負けですよね。

 

 「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」という言葉も仏教用語です(法華経由来といわれています)。自分にできることと言えば、少しの不便を我慢する、やりたいことを我慢するといった、自分と他人の「身命」を「惜しむ」ことくらいですが、早くこの閉塞的な状況が終わることを祈念しております。