本日は施餓鬼法要にお参り下さり、ありがとうございます。
いつもよく分からないお経(理趣経なんですけど)を聞かされてばかりでたまらないと思っておられたかもしれません。
その点、今年はよくわかる内容の歌があったりして、少し趣が違うと感じたのではないでしょうか。
普段、嗜んでおられる方もいらっしゃるかと存じますが、今日のはご詠歌、正確には和讃というものです。ご詠歌は和歌のように5、7、5、7、7で完結するのに対して、和讃はそれよりも長いものです。
今日の曲は「相互供養和讃」というものです。
歌詞は以下の通りです。
一、一樹の蔭の雨宿り 一河の流れ汲む人も
深き縁の法の道 歩むに遠き行くてをば
二、情けに包む人の慈悲 供うる人も受くる身も
共に仏の御光を 受けて輝く嬉しさに
三、施主の功徳を称えつつ 御名唱えて報いなん
ごくごく簡単に申し上げると、 人は、知ると知らざると多くの人と無数の縁に結ばれて生きています。
ときには助け、ときには助けられることもあります。この長くて面倒くさい人生を、仏様の加護を等しく受けるチームとして、互いに尊敬しあいましょう、といった感じでしょうか。
生きとし生きるもの全てが、等しく仏の子である以上、自分と他人の区別はない。
「無分別」こそが理想の境地なのですが、なかなか難しいです。
他のいのちを大切にするために、まずは自分が特別な存在であることに気付く。意外と、このスタート地点を忘れがちかも知れません。
次に、自分を育ててくれた両親に感謝する。
さらには、命をつないでくれた先祖に感謝する。
今度は身内だけにとどまらず、自分を支えてくれる色々な人に感謝する。
最終的には、目に見えないあらゆる存在にまで思いを巡らせて感謝できるようになれば大したものです。
本来、施餓鬼はお盆の行事とは別のものです。しかし、それが一緒に行われることが通例になっています。何故なのか。
お盆は先祖供養です。それに対して、施餓鬼は見ず知らずの亡者を救うための供養です。要は、供養の対象を時間的にも空間的にも広げる法要です。
その素晴らしい功徳をもって、仏様として先を歩いておられるご先祖さまたちにも喜んでもらうということです。
誰に対しても、どんな存在に対しても「相互礼拝 相互供養」というのは正直、難しいと思います。
しかし、日本人は、どんな人でも、死んだら仏という感覚があります。墓を暴いて、死体に鞭打つとか、死体を辱めるということを忌避する国民性ではないでしょうか。
ですから、今日は罪深き亡者にももれなく、手を合わせて「恩赦」が一刻も早く下るように供養していただきました。
さらには水向けだけではなく、般若心経もご一緒していただきました。
布施にも種類があります。まずは餓鬼さんにおなか一杯になっていただくのが水向けです。おなかがすいていては、ありがたい仏様の教えも耳には入らないでしょうから。
でも、それは対処療法にすぎません。いずれは、また飢えに苦しみます。
そこで、仏の教えを施すことで、根治治療、すなわち本当の意味での救いを与えるのです。
そういう意味で、今日は大きな功徳を積んでいただきました。
皆さんのご先祖様をはじめ、沢山の仏さまたちもきっと喜んでくださったことと思います。
本日はありがとうございました。
※ 令和三年七月 施餓鬼法要での法話に加筆修正したものです。