安心(あんじん)

 あるお寺のご住職が、ある機関紙にこんな内容の寄稿(本当はもっと長文です)をしていたそうです。

 

現在のコロナ禍の原因の一つは免疫力の低下である。

そして、免疫力の低下を引き起こす原因の一つが水子の祟りである。

だから、今こそ水子供養をしなくてはならない。

 

 きっと、今の状況に心を痛めたうえで、善意で仰っているのでしょうが、何か違和感を感じました。

 まず、誰もが不安でたまらない現在、徒にその不安を増長する内容でないか。そして、コロナに限らず、およそ病気というものは、いくら節制していても、信心がどうあろうと避けることができないものであるにもかかわらず、まるで病気にかかるものは業の深い者であるように捉えられかねない点。特に患者や患者の家族にまで偏見が向けられている現状において、それを助長しかねないのではないかと感じたからです。

 

 一方、ある方から、高野山塔頭からお札が届いたとのお話もいただきました。

自分も修行させていただき、また役僧としてもお世話になった蓮華定院からのもので、28日に上綱様(ご住職)自ら疫病退散の祈願護摩をされたものを、有縁の方にお送りしてくだったようです。その方は非常に喜ばれておられました。

(28日はお不動様の縁日ということもあり、自分も自坊で護摩を修しておりました。勝手な想像で、上綱様と一緒に護摩をさせていただいたようでうれしく感じました) 

 お大師様も、嵯峨天皇が病を得られたときに、神護寺にて護摩祈祷をされ、加持水をお届けになります。その際には、「ちゃんと拝んでおきましたから安心してくださいね。きっちりお薬を飲んで養生してください。(ものすごく端折ってます)」とのお手紙を添えられ、帝は大変お喜びになったというエピソードと相通じるものがあります。

 

 タイトルの「安心(あんじん)」ですが、読み方は異なるものの、日常に使う意味とほぼ同じものです。定義としては「信仰や実践により到達する心の安らぎあるいは不動の境地」となります(『岩波仏教辞典』)。

 およそ宗派は違えども、仏教である以上いかに「安心」を与えるかが最重要事項ですし、その手段こそがそれぞれの宗派のウリだったりするわけです。

 

 同じことを伝えるにしても「不安」を提供するところからはじめてしまっては、仏教というよりも霊感商法に近くないでしょうか。

「○○しなさい、さもないと不幸になりますよ。」と伝えるのと「〇〇すれば幸せになりますよ」と伝えるのでは、相手に与える選択の自由の幅が全く違いますね。

不安を取り除くのは仏教の大きな役割ではありますが、人の不安を燃料として存立するというのは違うでしょう

 

 たとえ難しい講釈はできなくとも、このお坊さんとしゃべると何か気が楽になったな、すっきりしたな、と思っていただける僧侶でありたいと思います。