偽薬ではなく本物の薬を調合するために 代受苦の覚悟

 先日、いつもお寺を手伝ってくださっている僧侶の方がボソッとこんなことを仰いました。

 「行者というものは『代受苦』者のように、自分に厳しい方ばかりだと思っていたのですが、そうではないんですね。」

 

 ドキッとしました。

 自分は咄嗟に

 「中身が伴わない行者が、それなりの格好をして、それなりの所作をして拝めば、何かしらの験がでるかもしれません。ただ、それは本当の験ではなく、いわば「プラシーボ効果」に過ぎないかもしれませんね。」

と申し上げましたが、最適解ではなかったかもしれません。

 

 以前に高野山塔頭で役僧をしていた時に、先輩から過去の「猛者たち」の話を色々聞かされました。

 その中のお一人は、普段はおとなしいのですが、夕方になると酒をあおり、木刀を振り回して暴れていたそうです。

 たしか、東大卒だったか高学歴の方だったそうです。なぜ、そんな酒乱のような人を寺で雇ったのか不思議に思い、尋ねたところ、先輩が仰るには

 「あの人、真面目やったんや。仏教や坊さんに高い理想や憧れをもって、山にやって来たんやけど、全然違うと分かった途端に壊れてしまったんやと思う。」

とのことでした。

 

 自分自身は、小学生の時に、普段は神だの、仏だの、といっている宗教者が、決して人格者ではないということを身をもって教えていただく体験をしました。

 一方で、当時ちょうど来日されたマザーテレサのような本当の素晴らしい宗教者がいらっしゃることも分かっていましたし、自分の中の理想の宗教者は映画『ポセイドンアドベンチャー』の中で、神に怒りの言葉をぶつけながらも、躊躇なく自分の命と引き換えに他の人々の命を救う、ジーン・ハックマン演じるスコット牧師だったわけです。

そういう意味で、自分は割り切りができる不真面目な人間なのかも知れません。

 

 先述の、拙寺にお手伝いに来てくださる方は自分と異なり、すごく真面目な方ですので、失望して、せっかくの仏縁を損なってしまわないように、自分も襟を正さなくてはならないと思いました。

 

 ところで、『代受苦』をネットで検索すると、ある有名な僧侶の方が、震災被害者に当てはめた用例が多く上がってきます。

 しかし、本来的には、仏菩薩が大悲の心より、衆生に代わり苦難を受けることを指します。仏様一般に当てはまることなのでしょうが、お地蔵さんが代表的な存在のように思います。実際「身代わり地蔵」の作例は多いですし、中には縄で縛られてがんばってくださっているお地蔵さんなんかもおられますよね。

 

 私たち人間は、菩薩行をするために生まれてきています。すなわち利他行です。その最たるものが代受苦です。でも、実際には難しいわけです。

 だからこそ、行者は一般の衆生の分も引き受けて、代受苦として身を削りながら修行をするわけです。

   山中の修行の場には、「捨身が岳」などという地名もあります。文字通り、行者が衆生のために、身を犠牲にした場所ということです。

 実際には、事故で足を滑らせて亡くなった行者もいたでしょうが、そういう方たちに対しても、「捨身」という表現を使ったようです。それは、普段から、衆生を思い、苦行を重ねている姿が敬意に値するものだったからでしょう。

 

 出羽三山では、「即身仏」が有名です。エジプトのミイラとは異なり、生きているうちから少しずつ食事を絶っていくことでミイラとなった僧たちです。

 即身仏になられた時期は、多くの場合、災害や飢饉の時期と重なっているそうです。やはり、この方たちも、自分の覚りというよりも、自分の命と引き換えに何とかして衆生を救いたいという一心からだったのだと考えられます。

 

 科学合理主義の現代にあっては、祈祷やまじないの類は、怪しげなものとして見られがちです。

 一方で、昔であっても、祈祷やまじないが100%受け入れられていたわけではありません。お上による禁止がなされたり、庶民の間から嘲笑の的になっていたこともあるようです。

 但し、それは祈祷やまじないそのものの否定ではなく、裏付けとなる修行や苦行もせずに行われる「なんちゃって」祈祷を否定したわけです。

 

 知り合いの僧侶が、今までやったことのない病気平癒の祈願をするにあたり、先輩の僧侶から言われたそうです。

 「普段、行をしてない行者が祈願をしたって、験は出ぇへんで。」

 

 行もせずに怠けてばかりで、人間的に信用されていない僧侶が祈願をしたとしたら、偽薬効果すら出ないかもしれません。そもそも、祈願してもらおうという方がいないかもしれませんが。

 

 第一類や第二類医薬品 のような効果が出ないにしても、サプリメント以上の効果が出るくらいには、自分を律していきたいと思います。