客塵を払う(令和2年2月薬師護摩)

いつも護摩においでの方だと色々な作法に気づかれるようになっておられるかも知れません。

たとえば、樒の葉を炉の中に投げ込む場面。一方で、炉の外に投げる時もありますね。別にコントロールミスして外しているわけではありません。あれは仏様がお座りになる椅子とか座布団のようなものです。炉の中に投げるのは食事会場へご案内、外に投げるのは食事が終わったので、会場の外へお送りするという意味です。

樒を使っていますが、仏様と言えば、よく蓮華に座っておられますね。また、蓮華を模した荘厳も多いです。仏教的な花の代表と言えます。

蓮華が仏教で特別な花とされる理由として「蓮華の五徳」といわれるものがあります。その中でも一番有名なのは「淤泥不染の徳」です。すなわち、泥の中に有っても綺麗な花を咲かす蓮華のように、私たちもこの面倒くさい娑婆の世界に有っても、その汚れに染まらずに綺麗な心を保つことが重要ということです。

蓮華についている泥は、蓮華自体の汚れではないことから「客塵」であり、我々の本性は蓮華のように清浄である、とも言えます。

さきほどは「泥の中に有っても」と言いましたが、本当は「泥の中に有るからこそ」というのが正解かも知れません。高野山にいるときに「山の十年より、娑婆の一年」なんて言われました。山で心静かに修行するのなんて、たいして辛くはありません。むしろ贅沢な時間です。それよりも、娑婆で対人関係やら何やら面倒くさいことと対峙して暮らすほうがよっぽと辛いです。そこで心を平静に保つことこそ、最高難度の修行でしょう。

実際、蓮は泥の中でないと咲きませんし、また泥はごみではありません。泥を栄養としてるからこそ綺麗な花が咲くということのようです。

とはいえ私たちの場合、泥に押しつぶされてしまいそうなことも多いのではないでしょうか。栄養ではなく、ストレスのレベルになっていては心身ともに壊れかねません。泥さきほどの表現では「客塵」を取り払う方法で一番簡単なことは、きれいな言葉を話すことだそうです。ではどんな言葉がきれいな言葉なのか。すぐに思いつかない方には簡単な答えを。お経です。仏様の言葉であるお経は間違いなくきれいな言葉です。

護摩の最中、一緒に般若心経や真言を唱えてくださりました。そして激しい炎は私たちの煩悩を焼き尽くしました。今、理屈抜きに、心の塵が取り払われてスッキリしたのを体感されているのではないでしょうか。

残念ながら、またすぐに塵はたまります。しんどくなったらまた護摩にいらして塵掃除をしてください。