みんな仏の子

 今日も沢山の方がご参加くださりありがとうございます。

 

 今日はどうか分かりませんが、どこに座るか悩む場面は多いのではないでしょうか。

 昔ながらの上座、下座を意識してなかなか自由に座れない。誰がどこに座るかを確認して、そこを「基準点」にして席を決めるということは誰でも経験があるかと思います。

 指定席の方が気が楽で、自由席こそが「不自由席」だったりします。

 

 先日、昔お世話になった寺の葬儀に参列いたしました。

 「自由席」なのですが、意外とみんな的確な「指定席」を見つけていました。

中には、堂々と不正解をさらしている方もおられましたが・・・・。

 

 実は、僧侶の場合、席次の基準が決まっているので簡単だったりします。

 高野山真言宗ではそれを「臈次(らっし)」と呼んでいます。

 通仏教的な用語では「法臈(ほうろう)」といいます。

 

 今では大僧正だとか大僧都といった「僧階」なんていうものがあり、着用できる法衣や袈裟にも細かい規定がありますが、それは後の話。

 初期の仏教教団にそんなものはありません。

 

 唯一、序列の決定方法は、正式の僧侶(「比丘」「比丘尼」)になってからの年数の長幼です。

 僧侶になってからの「年功序列」というわけです。

 

 たとえば、新人が、戒を授かるのには、先輩が何人以上立ち会って・・・などの規定がありますが、その役に就くにあたって、年数以外の縛りはありません。

 このようにすることで、「役の重要性」が低下するのです。

 年数がくれば、誰だってつくことができる役だとすれば、役の有無で偉そうにしたり、軽んじられたりすることはありませんし、役のために足を引っ張りあったり、妬んだりする必要もないわけです。

 

 こういうと、先輩が一日でも早く入っただけで先輩風を吹かせて・・・というめんどくさいイメージを持たれるかもしれませんが、そうではありません。

 たしかに、師僧が病に臥せったら、弟子が全力で世話をする規定がありますが、逆に弟子が病に臥せった場合には、師僧が全力で世話をするように求められています。

 

 また、先輩を立てるのは当たり前ですが、逆に後輩を軽んじてはいけないともあります。同じ仏道を目指して発心した者同士、場合によっては後輩の方が先に覚りを開くことだってありうるわけです。ですから、互いに敬わなくてはいけないとするのです。

 

 インドではカースト制度が有名です。一応法律上は撤廃されたことになっているようですが、何千年も続いた文化が皆無になる訳はありません。

 インドで最もポピュラーな宗教はヒンズー教ですが、お釈迦さま当時でいうバラモン教がアップデートしたものといってよいでしょう。

 お釈迦さまの頃は、その宗教者たるバラモンが絶対的な力を持つ時代でしたが、商工業の発展とともに、そのことに疑問を呈する人も出てきたようです。そんな中で、誕生したのが仏教です。同時代には、いまなおインドで一定の信者を誇るジャイナ教も誕生しています。

 ご存じの通り、お釈迦さまは王子様ではありますが、バラモン階級ではありません。その次のクシャトリア階級です。そして、お釈迦さまは様々な身分の方を等しく弟子とされていますし、布教もされています。

 ときには、貴族の招待を断って、先約があると言って娼婦の宴に参加したりもしていますし。

 

 そういう意味では、仏教は徹底した平等主義を目指す宗教といえるでょう。

 独立後、インド最初の法務大臣になられたアンベードカルという方はカーストの外にある不可触民出身の方でしたが、身分制度の撤廃を目指してヒンズー教から仏教に改宗したのも、そのような考えがあったからでしょう。

 

 利益を追求する企業や、勝利を目指すスポーツなどで、年功序列を貫くことはそぐわないでしょうが、そのような価値観が不要な世界では、年功序列はむしろ軽んじてはいけないのではないでしょうか。たとえば、家庭や地域のコミュニティなんかです。

 

 そして、お寺もそういう場所でなければならないはずです。

 役や肩書があり、一般的に「社会的成功者」と呼ばれる方も、それはそれで気苦労も多いでしょう。

 お寺に来て、仏様の前に来たときくらいは、重荷をおろして、防具を外して、弱音を吐いたり愚痴を聞いてもらっていただいてはいかがでしょうか。

 

 また、冷たい世間にうんざりしている方なんかは、仏様の前に座って、たとえ世界中が敵であっても、最大の味方がここにいらっしゃると自信と安心を得て帰っていただければと思います。

 

 自分も、そのような環境を作るべく努力したいと思います。

 

※ 令和三年11月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

 

手放す訓練

 ちょうど境内の紅葉が綺麗なときに来ていただきました。となりのお家のイチョウも綺麗だったと思います。

 どちらも秋の彩りですが、仕組みが少し違うそうです。

 

 モミジやカエデが赤くなるのは、気温の低下に伴い、葉っぱの中にアントシアニンという赤い色素が出来るからだそうです。あのブルーベリーの色素としても有名なやつですね。

 一方、イチョウの黄色は、カロテノイドという色素によるものなのですが、こちらは元々備わっているそうです。

 ただ、普段は葉緑素であるクロロフィルの緑色に隠れて見えないだけだそうです。それが、秋になり日照時間が短くなり光合成が盛んでなくなると、クロロフィルが退化して、結果、黄色が表面に出てくるわけです。

 

 イチョウの木は寺によく植えられています。

 理由の一つとしては、火災対策とも言われています。

 イチョウは多くの水分を含み、燃えにくいそうです。実際、色々なお寺で「火伏せのイチョウ」などと呼ばれ、火事でも燃え残ったイチョウの大木が残っていたりします。昔の人の智慧が見つけた「自然の防火壁」でもあったようです。

 

 それだけではなく、イチョウはお寺にふさわしい木であるように思います。

 いつも申し上げているように、私たちの中には「仏性」があります。

 ただ、煩悩にまみれて埋もれてしまっていて見えなくなっているだけです。

 仏教には三つの定義があるといいます。一つはブッダのおしえ、二つ目は仏となるための教え、三つめは自分が仏であることに気づく教えです。

 密教では最後の定義を大切にしています。

 闇夜であっても、月は存在しています。雲を取り除けば、まんまるい月が顔を出すように、自分の中の仏様を現わして、大きくしていくのが密教の修行です。

 

 今、護摩でいろいろな祈願を添え護摩木に書いていただいたものを仏様にお届けしました。

 それは、欲であり煩悩のあらわれであり、今までの話に反するものではないかと心配されている方もいらっしゃるかもしれません。

 

 ご安心ください。

 密教では、欲を否定していません。欲が人間の行動の原動力になることはたしかです。ただ、その欲のレベルを、高度のものにしなさいというのです。

 だって仏様にも欲はあります。それは「衆生を救いたい」という欲です。

 

 「小欲」と「大欲」などということもありますが、仏様の欲は「偉大な欲」である「大欲」です。

 なかなか、凡夫たる私たちには難しいです。でも、あきらめてはそこでおしまいです。だから意識して訓練する必要があります。

 

 実は、この護摩の修法の中にもあります。

 みなさんの添え護摩木を投じるタイミングは、百八支という文字通り108本の枝を投じた後です。108という数でピンとくるでしょうが、これは煩悩を表しています。

 火を見つめ、一心に真言や経を唱えることで、煩悩を焼き尽くします。

 そして、今後は「大欲」を満たすために生きる決意をすることで、祈願を聞き届けてもらうのです。

 

 握った手のままで、福徳をつかむことはできません。

 一度、手に握っていた煩悩をすべて仏様に引き取ってもらって、代わりに仏様からプレゼントをいただくのが護摩です。

 今日、沢山のお土産をもらったと感じていただければ幸いですが、なんかモヤモヤしたものを下ろすことができたと感じていただければ、それだけでも幸いです。

 

※ 令和三年12月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

最高の印(いん)

 真言宗の特徴といえば、名前が示す通り真言を唱えることです。実は、密教を含む天台宗はもちろんですが、禅宗でも真言や陀羅尼を唱えていますので、真言を「重要視している」といった方が正しいかもしれません。

 

 さらには、手でいろいろな印を結ぶことも真言宗の特徴といえるでしょう。

 私たちと仏様とは「構成要素(六大)」は同じなのですが、仏様は行動、言葉、気持ち(身口意)が清浄なものなのに、衆生は同じものをそなえているのに、それらをうまく使いこなせないために罪過の原因たる「三業(さんごう)」となってしまうわけです。

 

 そこで、印を結び、真言を唱え、心を整えることで仏様と同じ境地に至る訓練をするわけです(三密行)。

 

 あの一休さん高野山を訪ねたときの話(多分フィクション)です。ある阿闍梨さんに向かい

 「真言宗では印というものを大事にしているようだが、子どもの手遊びと同じじゃないか。功徳などないでしょう。」と小馬鹿にして、立ち去ろうとしました。

 すると、阿闍梨が、手をポンと打ちました。

 一休さんは思わず振り返ります。

 次に阿闍梨は手招きをします。

 何事か?と一休さんは戻ってきました。それに対して

「あなたは、私が手をうっただけで振り返り、手招きすれば戻ってきましたよね。私の手の動きひとつでもこのようなはたらきがあるのです。まして仏様の伝えてくださった印にどうして功徳がないでしょうか」と。

 さすがの一休さんも失礼をわびたそうです。

      

 なかには、在家の方でも、どこで調べたのか、色々と印を結んでいる方もいらっしゃいます。ちなみに真言宗では、印は自分で調べて勝手に結ぶようなものではなく、「授かる」ものです。

 

 もともとはインドの舞踊のときの指の動きが起源ともいいますから、一般の方が興味本位で結ぶ分には目くじらを立てる必要はないのかもしれません。

 しかし、僧侶が、しかるべき手続きを踏んで教わらずに結んだり、資格のない方に伝えたりすると「越法(おっぽう)」という重罪になります。

      

 ただ、そんなことをいうと、やはり密教は坊さん向けの「秘密の」宗教で、排他的で嫌だ、と思われるかもしれません。

 

 しかし、みなさんは一番大切な印をすでに知っています。

 合掌です。

 合掌にも色々な種類がありますが、普段みなさんがされている「普通」の虚心(こしん)合掌も立派な印です。

 ただ、手を合わせるだけではもったいないです。

 最初に述べたように「三密行」にレベルアップしてしまいましょう。合掌すると同時に気持ちと言葉も整えるわけです。

 

右ほとけ 左衆生

合わす手の 内ぞゆかしき

南無の一声

 

 仏教では右手が仏、左手が私たち衆生を意味します。合掌は、仏と私たちが一体となる様子を表しています。

 仏様が私たちに寄り添っていること、私たちの中にも仏がいらっしゃることを心に浮かべて、ただ「ありがとうございます。」と唱えるだけで立派な三密行です。

 その姿は、すでに仏の姿そのものです。そんな時間を大切にしたいものです。

 

※ 令和三年11月号の「西山寺通信」の内容に加筆修正したものです。

葬儀雑感

 葬儀は数多くさせてもらっているのですが、今回は、普段と少し異なる葬儀に参列しました。

 最初の師僧の奥様の葬儀でした。

 いつもは、導師として修法する側として葬儀に関わっているのですが、今回は違います。僧侶の世界では師僧は親と同じということですし、実際奥様にも大変お世話になったので、気持ち的には親族に近い感じです。

 さらには、参列者として悲しんでいるだけではなく、葬儀式での脇僧としてのつとめも果たさないといけないという点で、不思議な精神状態での葬儀でした。

 

 そこのお寺には、沢山の弟子がいらっしゃいます。自分の知らない「弟」や「妹」も増えているようです。今回も、全部の方を呼ぶわけにはいかないということで、参列を断った方も多かったそうです。

 

 久しぶりに会う「兄弟」を見て、色々と思うところがありました。

 

 式がはじまる前に、誰かに見られることを意識するわけでもなく、ひっそりと「追弔和讃」などの御詠歌をあげておられた、奥之院から駆け付けたA師。さすがに、普段お大師様の御膝元でお仕えしているだけあって、心が震える御詠歌でした。

 

 葬儀終了後、出棺までの花入れの時間に、隅の方で印を結び、微音で経や真言をひたすら唱えつづけていた、栃木から駆け付けたS師。口下手でシャイな方ですが、小手先でごまかすようなことを嫌う真面目な方。師らしいなと思って見ていました。

 

 入院中でおいでになれなかったS2師は、同じ時間に部屋で一生懸命供養法を修すると仰っていたそうです。自分は、その方の加行をする姿を見ていました。どんなに時間がかかっても、手を抜くことなく全力で取り組む方でした。きっと、ご自身の体調など後回しで、心のこもった供養をされていたことでしょう。

 

 やはり、体調が悪く、法務を退いたと伺っていたS3師も奥様に付き添われておいでになってました。自分が得度したばかりのころ、周りにはとっつきにくい先輩しかいなくて不安だったなか、優しくお声がけ下さり、色々と気にかけてくださった方です。「癒しの」笑顔は健在でした。お経や小難しい作法なんかよりも、師の場合、そのお顔を見せて下ることこそが最高のはなむけだったのかも知れません。

 

 以前に、その師僧から、葬儀を200件くらいやると、何か分かるようになると言われました。

 いつの間にか、その数を大きく超えてしまいました。

 たしかに、次第も頭に入り、手際よく修法出来るようになりました。

 しかし、故人を「如何に供養するか」よりも、参列者に「いかに見せるか」という部分のスキルの方が伸びてしまっていたのかも知れません。

 

 今回、式中で、結婚式の二次会レベルの出し物のようなものを披露する方(失礼)がいる一方、見えない部分での真摯な供養の心というものを教えてくださった「兄弟たち」に感謝です。

 

 というわけで、手持ちの引導作法の次第やら解説本をすべて引っ張り出して勉強しなおしています。

 これまでも、デビュー当時からの葬儀次第を少しずつマイナーチェンジしてきたのですが、ここらへんでフルモデルチェンジかな、とも考えています。

 「心」の伴った、自分が現状でできる最高の葬儀を目指します。

 

 

 

 

仏罰はあたる?あたらない?

 大学時代、日本法制史ゼミに所属していました。

 内容は、江戸時代の刑罰制度で、当時の刑法に当たる「公事方御定書」と、裁判記録に当たる「御仕置例類集」がテーマでした。テレビでお馴染みの「鬼平」こと長谷川平蔵宣以の裁判記録なども目にしました。

 当時、世界最高の治安を誇っていたといわれる江戸の町。当時の刑罰制度を知ることで、現代における犯罪減少のヒントが得られるのではないかと思ったのです。

 残念ながら、答えは出ませんでしたが、現代の感覚からすると、かなり厳罰主義であるような印象を受けました。

 

 現在では刑罰は、単純な「目には目を」的な応報刑というわけではなく、一定の効果を期待した目的刑であるとされます(応報刑的な面を否定するわけではありません)。

 そして、目的には、一般予防と特別予防があります。

 

 一般予防とは、犯罪とは直接に関係しない「一般」市民を対象にして、犯罪を抑止させるという予防効果です。

 一つは威嚇効果です。

 犯罪を犯したら、こんなつらい目に遭うんだよということをあらかじめ示しておくことで威嚇して、犯罪を踏みとどまらせる効果です。

 ただ、いくら法で定めていても、適切に運用されていなければ意味がありません。

 権力者なら、罰を受けないとか、そもそも検挙率が低いというのもダメです。

 「なんだよ、犯罪を犯したって、逃げ得じゃねぇか」と世間が思ってしまっては、犯罪抑止効果が低下してしまうからです。

 そういう意味で、刑罰が適切に科されることによって、司法への信頼を高める効果も大切です。

 

 一方で、特別予防とは「特別」な対象、すなわち犯罪者に対する効果です。

 まずは教育により更生をはかり、再犯を防ぐという効果です。

 もう一つは、更生が期待されない期間は、社会への危険を取り除く必要があるという隔離効果です。

 死刑についていうと、教育効果は当てはまらずに、隔離効果のみが当てはまることになります。

 

 これらの刑罰は、人が自分たちの社会を守るために作ったものです。

 それに対して、仏罰はどうでしょうか。

 

 仏罰にも一般予防効果はありそうですね。

 悪いことをすると罰が当たるとか、地獄に落ちるとかいうのを恐れて、まっとうに生きるというのであれば、威嚇効果が表れています。

 また、悪い奴には仏罰が当たり、善人は必ず報われるというのを目にすると、「天網恢恢疎にして漏らさず」ということで神仏はちゃんと見て下さるんだという信頼が生まれ、一層真面目に生きる励みになるでしょう。

 

 ただ、残念ながら、仏罰は刑罰と異なり、すぐに適用されないこともあり、「神も仏もあったもんじゃない」と愚痴る人がいるのも事実です。

 そういう意味では、昔話や時代劇みたいに、分かりやすいタイミングで勧善懲悪が果たされる方が、社会は安全かつ平和なものになるのかもしれません。

 

 しかし、仏罰を恐れているから、善行に励むというのでは、仏教の目指す本当の善ではありません。

 善行は善行として、悪行は悪行として業として蓄積していくのですが、すぐに分かりやすい形でご褒美も罰も与えてくれません。それは、私たちが自発的に善をなす存在になることを期待されているからかも知れません。

 

 たしか、勝海舟とその塾生たちとの話だったと思います。

 塾生たちが、わいわい騒いでいます。

 「神なんて居るわけないよな。」

 「ああ、さっきも神社の境内で、立ちしょんしてきたけど、この通り何の罰も当たってないぜ。」

 みんな、大笑いしているところに、先生が入ってきて一言

 「もう、罰は当たってるじゃないか。」

 生徒がきょとんとしていると

 「神社に立ちしょんするなんて失礼なこと、およそ人ならできねぇことだ。そういう意味じゃ、お前らはもう、犬畜生になるっていう罰があたってるじゃねぇか。」

と言い放ったそうです。

 

 神仏を過度に恐れる必要はないと思います。

 さらには、無理に神仏の存在を肯定して、信仰しろというわけでもありません。

 しかし、何か大いなる力によって見守られている、いわゆる「お天道様が見ている」という気持ちを忘れて、謙虚さを忘れてしまっては、人間は人間ではなくなって、単なる生物学的な「ヒト」に堕してしまうように思います。

 

 謙虚に生きること、すなわち何かに生かしてもらっている、と意識することで、神仏の警告メッセージも聞き取りやすくなるのではないでしょうか。

 

 

 

結縁灌頂

 いままで、何回か「灌頂」について書いたことがありますが、いま一度、簡単に書いておきます。

 

 灌頂とは、文字通り「頭頂」に水を「灌(そそ)」ぎかける儀式です。

 もともとは、インドで国王の即位式などで四大海の水を頭に注ぎかける儀式があったものを、仏教に取り入れられたものと言います。

 灌頂には、色々な種類があるのですが、一番メジャーなのは、結縁(けちえん)灌頂、受明灌頂、伝法灌頂の3つです。

 受明灌頂は、弟子灌頂とも言い、得度したのち、これからさらなる密教修行をすることを発意した際に受けるものです。

 伝法灌頂は、今までもたびたび説明していますが、加行を終えたものが阿闍梨となるためのものです。

 

 タイトルにある結縁灌頂だけは、後者2つと異なり、在家の方でも受けることができる灌頂なのが特徴です。

 あまり書いてしまうと、ネタバレになり面白くないので、ごく簡単に書きますと、目隠しをして、手に持った華(高野山では樒を用います)を曼荼羅に投げます(というか、落とす感じ)。その華が落ちたところの仏様と縁を結ぶというものです(「投華得仏」といいます)。

 曼荼羅金剛界と胎蔵があるように、高野山では例年、5月に胎蔵曼荼羅の仏様と縁を結ぶ結縁灌頂が、10月に金剛界曼荼羅の仏様と縁を結ぶ結縁灌頂が行われます。

 

 かつて自分自身を肯定できない時期がありました。

 追い打ちをかけたのは、たまたま新聞で、かつての同級生の死を知ったこと。

 何故、自分なんかが生きているのか、彼が生きていくことの方がよっぽと世の為になるに違いないのに・・・と、訳の分からない自己嫌悪に陥りました。

 他のいのちを犠牲にして生きるだけの価値が自分にあるのか、宮沢賢治の「よだかの星」のよだかのように苦悩して、それでも生きるために他のいのちを口にしなくてはならないことに罪悪感を感じさえしました。

 情けないことに、生物である以上、生存欲求があるため、絶食するには至りませんでした。それでも、最小限のものしか口にしなかったため、三か月で20㎏ほど体重が落ちました(職場の同僚は病気によるものかと思っていたようで、気を遣ったのか、体重のことは一切口にしませんでした)。

 わざと難しい道を選んで、四国遍路をまわっていたのもその時期です。このまま、四国で・・・という気持ちもありました。

 

 そんなときに高野山へ参り、結縁灌頂に入壇しました。

 号泣しました。

 こんな自分でも生きていていいのだと、仏様に言っていただけたように感じたからです。ようやく、自分の存在を肯定できた瞬間でした。

 

 さきほどは、「仏様と縁を結ぶ」儀式と書きましたが、実際は「仏様との縁を確認する」儀式といった方が正しいかもしれません。

 誰もが、仏様の大事な子供であり、一部であるというのが真言宗の考えです。

 ただ、そんなことを意識することなく、日々の生活に追い立てられているだけという方が殆どではないでしょうか。

 自分が特別な存在である、誰もが「天上天下唯我独尊」であるということを意識することができれば、自信と責任をもって生きていくことができるのではないでしょうか。

 

 高野山塔頭で役僧をしているときに、40歳くらいの尼僧さんが加行をするためにいらっしゃいました。心身ともに少し不安がある方でした。ちょうど結縁灌頂が行われている時期でしたので、

「時間があるのでしたら、結縁灌頂を受けてきてはいかがですか。」

と申し上げたところ、ものすごい形相で

「前に受けました! そんなに言うなら、あなたが受けてきたらどうですか!」

と言われてしまいました。

 

 たしかに結縁灌頂金剛界と胎蔵を一回ずつ受ければコンプリートなのかも知れません。

 しかし、先ほども書いた通り、仏様との縁を確認する機会ということでしたら、何回受けてもいいわけです。実際、自分も胎蔵の方は複数回受けています。

 

 ちなみに、その方は、加行全体の4分の1すら修了することなく山を下りていきました。

 「色々な力が、私の行を邪魔している」などと、被害妄想的なことを口走り、ついには部屋から出てこなくなってしまいました。

 仏様と向き合うのが行なのに・・・。

 仏様とつながっていることを確信できていないゆえの結末だったと思います。

 

 残念ながら、高野山での結縁灌頂はコロナの影響で中止となっています。

 関東の方でしたら、高輪の東京別院で開かれるものが便利ですが、こちらも同様です。

 状況が変わり、結縁灌頂が開かれるようになりましたら、是非とも体験していただきたいです。特に、かつての自分のような悩みを抱いている方にはおすすめします。

 

 

 

信仰上の浮気 ダメ ゼッタイ

 この寺の住職になるにあたり、本山にて「法流稟承(ほうりゅうほんじょう)」「親授式」というものを受けました。

 その際に、座主様からこのような内容のお言葉をいただきました。

 「皆さん、色々なことを学んできたと思います。しかし、これからは高野山真言宗の寺の住職として、本宗のやり方に則って修法するように気を付けてください。」

 

 そんなこと、当たり前って思われたかもしれません。

 高野山真言宗のお寺だと思ってお参りしたら、「南無阿弥陀仏」だったり、団扇太鼓を打ち鳴らす音とともに「南無妙法蓮華経」と聞こえてきたら、びっくりしますよね。

 

 しかし、実際、僧侶個人レベルでは、他宗派で修業なり、勉強をしている方は少なくありません。

 自分の、高野山での師僧も、真言宗のことをよりよく理解するためには、他宗派のことを知り、外から見る必要があるという考えだったようで、若い頃には、臨済宗南禅寺で修業をされていたそうです。弟子の中には、師僧をリスペクトして、同様のことをされている方もいらっしゃるようです。

 

 自分も修行というほどではないですが、ゆはり鎌倉仏教の源流となった「綜合大学」である天台宗のことを学ぶことが大切だと思い、しばらくの間、天台宗のお寺さんに通って勉強させてもらっていました。

 

 先日、井戸封じの祈祷を依頼されました。自分の学んだ修法では、天台方のものと真言方の両方がありますが、先の座主猊下からのお言葉を思い出し、真言宗の看板を背負っている以上、真言宗のやり方で致しました。

 

 秋の時期になると、本山では、中院流の伝法灌頂が開かれます。

 阿闍梨になるための儀式です。

 真言宗には、高野山真言宗とか智山派とか豊山派といった「派」とは別に「流」というものがあります。本当は単純に「高野山真言宗=中院流」というわけではないのですが、高野山で集団で行われる伝法灌頂は中院流でおこなわれます。

 

 普通は、四度加行を終えると、直近で開かれる伝法灌頂を受けて阿闍梨となります。

 真別処や専修学院などの教育機関でも、春から加行をスタートして、秋には伝法灌頂を受けるようなカリキュラムになっています。

 

 山内の塔頭で役僧をしていたときのことです。

 そこでは、院内加行といって、大阿闍梨さまから個人的に指導していただく加行を行っていました。

 色々な加行者さんがいらっしゃいました。

 その中のお一人の話です。

 

 四十歳前後の方だったと思います。非常に熱心な方で、行に入る前に、寺でお手伝いを長くしてくれていたこともあり、お経の唱え方や立ち居振る舞いなどの作法も素晴らしいように思いました。

 自分が、そのような感想を先輩の僧侶に伝えたところ、その方の見立ては自分とは異なり、

 「あいつは、まだ真言宗の坊さんになっていない。」

と仰いました。自分は、何を以てそのように見ておられるのか分かりませんでした。

 

 その後、その方は、直近の伝法灌頂に入る許可を伝授阿闍梨様から得られなかったのです。それどころか、「権教師講習会」という、初心者向けの講習会に参加するように指示されたそうです。詳しくはまた別の機会に申し上げますが、「権教師」というのは、文字通り「教師未満」の資格で、わざわざ加行が終わり、これから阿闍梨、教師になろうという人がなる必要はないものです。

 

 なぜ、伝授阿闍梨さんがストップをかけたのか、理由は伺っていません。しかし、先輩の仰っていたことも踏まえて考えると「真言宗のお坊さん」になりきれていなかったということでしょうか。

 

 その方は、若い頃から真言僧を目指したわけではなく、日蓮系のお寺や、天台系のお寺に勤めていたこともあるそうです。実際に、信者さんの為に祈願をしたり、現場を数多く踏んでいたようで、お経が上手で、立ち居振る舞いが堂々としているのも当たり前だったのかもしれません。しかし、心に真言宗の僧侶としての「なにか」が存在していなかったということなのでしょう。

 

 他の宗派を学んだことで、自分の進むべき宗派をよりよく理解できるという利点があると思います。

 しかし、色々な宗派の、「おいしい」ところを表面的につなぎ合わせるというのは、意味がないように思います。金にものを言わせて、四番バッターばかりをそろえている野球チームが、それほど機能しないようなものです。

 

 また、別の行者さんの話です。

 その方は、研究者の方で、高野山大学の大学院で、瞑想と脳波の関係を研究されて修士号も取っている方でした。語学も堪能ですし、頭が良いだけでなく社交性もある素晴らしい方でした。

 しかし、やはり先輩の見立ては違いました。

 「あの人は、真言宗を信仰していない。あくまでも研究の対象としてしか見ていない。」とのことでした。

 はたして、その方も伝法灌頂を受けるまでに、色々なことが重なり数年を要してしまいました。

 

 在家の方に、菩提寺以外の宗派に関わるな、とか、関係ない宗派の寺にお参りするな、などと言うつもりはありません。

 

 四国遍路の先達をしているときに

 「うちの菩提寺さんには内緒でお参りに来てるんです。前に作った掛軸も、お寺さんが来るときには隠すんですよ。ものすごく怒られたんで。」

と、仰る方もおられました。

 たしかに、そのご住職の意見もごもっともだと思います。

 ただ、実際には四国遍路の札所には、真言宗以外のお寺さんもあるんですね。浄土真宗日蓮宗はないのですが、浄土宗や禅宗のお寺さんはあります。

 ですから、真言宗の信仰者でなくても、仏教の求道者として、大先輩である弘法大師の息吹を感じながら巡礼することに意味があるのだと思います。

 

 信仰は、人間関係と同じようなものかもしれません。

 色々な宗派のことを幅広く知るということは、色々な分野の友達と付き合うのと同じで、自分の視野を広げてくれることでしょう。

 

 そのうちに、本当に心の許せる親友ができるでしょう。

 

 僧侶や、それに近い篤信者となると、その宗派と結婚するレベルです。

 重婚などはもってのほかですし、いつまでも元カレや元カノを引きづっていてはいけないということなのでしょうね。

 先述の行者さんたちは、元カノを引きづっていたり、信仰(愛)のない仮面夫婦であることにダメだしされたんでしょうね。

 

 まずは、親の決めた「許嫁」である家の宗教を知ってほしいです。

 そのうえで、色々な「友達」とのお付き合いをしてほしいです。

 そして、本当に「運命の人」を見つけたと思ったなら、「許嫁」にこだわる必要はないでしょう。但し、そうなったらもう浮気はダメですよ。