葬儀雑感

 葬儀は数多くさせてもらっているのですが、今回は、普段と少し異なる葬儀に参列しました。

 最初の師僧の奥様の葬儀でした。

 いつもは、導師として修法する側として葬儀に関わっているのですが、今回は違います。僧侶の世界では師僧は親と同じということですし、実際奥様にも大変お世話になったので、気持ち的には親族に近い感じです。

 さらには、参列者として悲しんでいるだけではなく、葬儀式での脇僧としてのつとめも果たさないといけないという点で、不思議な精神状態での葬儀でした。

 

 そこのお寺には、沢山の弟子がいらっしゃいます。自分の知らない「弟」や「妹」も増えているようです。今回も、全部の方を呼ぶわけにはいかないということで、参列を断った方も多かったそうです。

 

 久しぶりに会う「兄弟」を見て、色々と思うところがありました。

 

 式がはじまる前に、誰かに見られることを意識するわけでもなく、ひっそりと「追弔和讃」などの御詠歌をあげておられた、奥之院から駆け付けたA師。さすがに、普段お大師様の御膝元でお仕えしているだけあって、心が震える御詠歌でした。

 

 葬儀終了後、出棺までの花入れの時間に、隅の方で印を結び、微音で経や真言をひたすら唱えつづけていた、栃木から駆け付けたS師。口下手でシャイな方ですが、小手先でごまかすようなことを嫌う真面目な方。師らしいなと思って見ていました。

 

 入院中でおいでになれなかったS2師は、同じ時間に部屋で一生懸命供養法を修すると仰っていたそうです。自分は、その方の加行をする姿を見ていました。どんなに時間がかかっても、手を抜くことなく全力で取り組む方でした。きっと、ご自身の体調など後回しで、心のこもった供養をされていたことでしょう。

 

 やはり、体調が悪く、法務を退いたと伺っていたS3師も奥様に付き添われておいでになってました。自分が得度したばかりのころ、周りにはとっつきにくい先輩しかいなくて不安だったなか、優しくお声がけ下さり、色々と気にかけてくださった方です。「癒しの」笑顔は健在でした。お経や小難しい作法なんかよりも、師の場合、そのお顔を見せて下ることこそが最高のはなむけだったのかも知れません。

 

 以前に、その師僧から、葬儀を200件くらいやると、何か分かるようになると言われました。

 いつの間にか、その数を大きく超えてしまいました。

 たしかに、次第も頭に入り、手際よく修法出来るようになりました。

 しかし、故人を「如何に供養するか」よりも、参列者に「いかに見せるか」という部分のスキルの方が伸びてしまっていたのかも知れません。

 

 今回、式中で、結婚式の二次会レベルの出し物のようなものを披露する方(失礼)がいる一方、見えない部分での真摯な供養の心というものを教えてくださった「兄弟たち」に感謝です。

 

 というわけで、手持ちの引導作法の次第やら解説本をすべて引っ張り出して勉強しなおしています。

 これまでも、デビュー当時からの葬儀次第を少しずつマイナーチェンジしてきたのですが、ここらへんでフルモデルチェンジかな、とも考えています。

 「心」の伴った、自分が現状でできる最高の葬儀を目指します。