不邪見

 今回で十善戒の話も最終回です。

 

 不邪見についてです。文字通り、邪(よこしま)な考えを持たないということです。

 邪な考えとは、簡単には、仏教の真理に反する考えのことです。

 よく言われるのは、「断見」と「常見」にとらわれないことだとされます。

 

 まず、「断見」というのは、人は死んだら何も残らないという考え方です。

 よく、物知り顔で、「仏教は無我を説いているのだから、死んでも何も残らないはず」という方がいらっしゃいます。

 しかし、お釈迦さまは、因果の道理を説いておられます。

 因果応報を否定するということは、責任のある生き方をするモチベーションが無くなる危険性があります。実際、他の宗教の方にとって「死んだらそれまで」という考えは、奇異なものに映るようです。

 たしかに、悪事を重ねている人がのうのうと生きている、逆に善人が報われていない場面も多いです。だからといって、因果応報を否定するのは早計です。

 私たちが積み重ねる「業」というものは、確かに記録されています。ただ、それがトリガーとなって、目に見える結果となるには、時間差があるわけです。

 ですから、痛い目に遭わないことをよいことに、悪さを続けている人は、荷台に時限爆弾やら火薬をどんどん積み続けているようなものでしょう。

 

 一方、「常見」とは、人は死んでも「我」(アートマン)という不滅のものがあり、輪廻するというものです。一歩進んで、また人として新たな人生を歩むことになると説明しているものもあります。

 しかし、これはあまりにも都合がよすぎる話でしょう。

 

 「盲亀浮木のたとえ」というものがあります。

 海深くに住む目の見えなくなった年老いた亀が、百年に一度だけ海面に顔を出すそうです。そのタイミングで、プカプカ浮いている流木に空いた穴に顔がスポっとはまることで、人に生まれる、さらには仏法に触れる機会というのは、それくらい滅多にない有難いことだというのです。

 ですから、私たちは、ゲームでリセットボタンを押して、一からやり直せるようなわけにはいかないので、せっかくのこのチャンスを逃さないように努力しないといけないというわけです。

 

 もっとやわらかい話をしましょう。

 何が正しくて、何が間違った考えかというのは難しいです。仏教的には正解でも、世間一般では不正解に見えるものもあるという話です。

 

 ある家族が舟に乗っていたときに、大波に煽られて、母親と奥さんが海に落ちたそうです。どちらを先に助けますか?女性の方は、親と旦那さんと読み替えてください。

 

 答は出ましたか?

 

 儒教的な、多分に道徳的な立場に立てば、親の恩が何よりも優先でしょうから、母親を助けるのが正義でしょう。

 

 近代的な合理主義的な立場だと少し複雑かもしれません。まずは体力的に厳しい親を助けてから配偶者を助ける。いや、体力のある配偶者を助けて、一緒に親を助ける方が合理的かも。そもそも、二人とも助ける余裕があるのか、どちらか一人しか助けられないとすれば・・・・などと、色々な条件を考慮に入れて正解を探さないといけません。

 

 では、仏教の立場ではどうでしょうか。

 近いほうから助ける。それだけです。

 

 帰宅されてから、ご家族に質問するのはやめてくださいね。家庭不和の原因になりかねませんから。

 

 さらに申し上げると、人の価値観はバラバラで、人それぞれの正解を持っているといえるでしょう。

 

 以前に西国観音霊場の先達をしていたときのことです。

 西国霊場は、一度満願をすると、申請することで先達になることができます。あとは何周かするごとに先達のランクが上がっていきます。

 それもあって、案内するお客さんの中には、先達資格をもつ方がちらほら見受けられます。

 

 そんな中の一人の男性からこんなことを言われました。

 「自分でお金を出さずに、観音様にお願いして、願い事は叶うんですかね。」

 はじめ、何を言っているのか分かりませんでした。少し、話をして、言いたいことがようやくわかりました。

 そのお客さんたちは自分でツアー代金なりを負担してお参りしている。それに対して、先達である自分は、代金も払わずにタダでお参りさせてもらっている。そんな人間が、観音様にお参りしたって願い事は叶うわけがないというわけです。

 自分は、こう申し上げました。

 「自分が先達をしているときには、自分自身の願い事はしていませんよ。みなさんの願い事を聞き届けてくださいますようにと観音様にひたすらお願いして、応援しているだけですよ。」

 しかし、その方は、この偽善者が、といった感じで納得していないようでした。

 価値観の違いは如何ともしがたいと思った瞬間でした。

 

 今日の護摩にしても、自分は自分自身のお願いはしていません。

 一枚一枚、添え護摩木を読み上げて、お薬師様に皆様の願いを届けることに全力を注いでいます。間違っても、ハロウィンジャンボが当たりますようになんてお願いしたりしていません。それはそれで、別のときに、一人で、しかも今日のような息災護摩ではなく、お金儲けに特化した増益護摩をしますから大丈夫です。

 

 もしかすると、不邪見というのは、自分自身の価値観だけにとらわれていてはいけないという意味も含まれているのかもしれません。

 何が正しいのか、近視眼的になるのではなく、多様な立場や価値観を尊重して探さないといけないということかもしれません。

 

※ 令和3年10月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

みんな やればできる子

 前回、IQに関するお話をしました。退屈かもしれませんが、今回も似たような話です。

 

 自分が、自分の知能指数をはじめて知ったのは小学校三年生のときです。

 とある学習塾の入塾試験の際に測定されました。試験の後、塾長なのか、校長を退職して「天下り」といった感じの老先生との面接でいきなりこう言われました。

 

 「こういう子が、受験で一番失敗するんですよ。」

 なかなかの先制パンチでした。

 続けて理由を仰いました。

 「これまで、大して努力しなくてもいい成績だったでしょう?でも、これからはそうはいかないよ。努力しなくても勝ち抜けるほどの知能指数ではないから。そして、今まで苦労せずに点数が取れてきただけに、努力をする癖がついていないでしょ。だから、受験で失敗しやすいんだよ。」

 小学三年生にはなかなかハードでした。親はそれ以上だったかもしれませんが。

 

 当時は、今のように塾が乱立しておらず、また少人数制なんていうものもほとんどありませんでした。自分の入った校も1学年に30名10クラス以上あったと思います。そんなメンバーの中には、半端た努力をしたところで自分には到底、歯が立たないであろうIQ160前後の「本当の天才」も何人かいました。

 

 

 そこで、自分のパラメーターに気付いてもっと努力すればよかったのでしょうが、中学受験の結果は大先生の予言通りになってしまいました。

 さすがの自分も、その後は目的達成から逆算した最低限の「必要十分な」努力をするようになったように思います。

 つくづく「努力も才能」なんていう方もおられますが、その通りだと思いますし、自分にはその才能が足りないようです。

 

 くだらない自分語りが長くなり申し訳ありません。ここからが本題です。

 

 私たちにとって、この世での「合格」というのは「覚り」ではないでしょうか。

「覚り」などという単語を使うと、高尚過ぎて必要以上に手の届かないものに感じてしまうかも知れません。また、宗派や説明する方によって定義も異なってくるでしょう。 

 そこで、ここではとりあえず真言宗的に「即身成仏」と定義しておきましょう。

 

 「即身成仏」とは、死んで仏になるのではなく、生きたまま仏になるということです。

 それは決して不可能ではないというのです。何故ならば、私たちも仏様も「構成物質」は同じだからです。

 仏様と同じような素晴らしい行動をとり、仏様と同じような優しい言葉を用い、仏様と同じように慈悲にあふれた気持ちでいられたならば、もうそのままで仏様になっているというわけです。

 

 ただ、口で言うほど簡単なことではないです。

 

 唐の詩人として著名な白楽天さんが、徳の高い禅僧(鳥窠禅師)に、仏教の要は何かと尋ねたところ

 「悪いことをしないで、善いことをすることだね(諸悪莫作 衆善奉行)」

と言われ、少しがっかりして

 「そんなことなら、3歳の子供でも分かることじゃないか。」

し返したところ

 「その通り。3歳の子供でもわかるのに、80歳のじじいになってもなかなかできないことだよ。」

と言われて感心したという話のようなものです。

 

 体、口、気持ちの「身口意」を仏様と同じように扱うことができると「三密」(最近では、異なるネガティブな意味に使われていますが)になりますが、十善戒のタブーに触れるように、使い方を誤ると「三業(さんごう)」となります。

 

 仏様は当然のことですが、「純度100%」の仏様なので、努力も意識もしなくたって仏様の振る舞いが出来ます。

 一方で、私たちは、「鬼と仏が混在する」存在ですから、意識して努力しないと仏様の振る舞いができません。鬼の振る舞いが前に出ることもあります。ただ、「仏様の成分」がある以上、努力さえすれば仏様として振舞うことができるのです。

 

 ちなみに、私たちと仏様の間には「天部」という、いわゆる天人の世界があります。

 天人の世界は、美しく、苦労も少なく、過ごしやすい素敵な場所だそうですが、そこがゴールというわけではなく、寿命が来るとまた別の世界に行かなくてはならないそうです。そして、人によっては、人間世界よりも苦労が少ない世界であるために、覚って仏様の世界に行くのは、人間よりも難しいと言います。努力する癖が身につきにくいということかもしれません。

 

 私たちの人間世界は、面倒くさい世界です。嫌なことも、嫌な人もたくさんいます。そんな環境で、仏様のように振舞うには並大抵の努力では難しいです。

 

 よく「やればできる子」なんて言います。

 人間界の住人である私たちはみんな「やればできる子」のはずです。

 たしかに、生来的に仏の成分が多い人もいれば、鬼の成分の多い人もいます。さらにはおかれた環境もバラバラです。「金持ち喧嘩せず」なのに対して、過酷な環境では心穏やかに過ごすことすら難しいでしょう。そういう意味では、難易度はまちまちです。でも、決して「無理ゲー」ではないのです。

 

 「やればできる子」にも色々のパターンがあります。

 「やってできている子」「やっているけど(まだ)できていない子」「やらないからできない子」「やろうとすらしていない子」・・・・。

 

 仏様は、私たちが仏になることも嬉しいですが、それ以上に「菩提心をおこす」ことを喜ばれると言います。「仏様目指してがんばります」と決意することです。

 正直、仏様も、私たちなんかが「成仏」を簡単に達成できないことを分かっておられるのでしょう。

 だから、決意して、失敗して、反省して、また決意して・・・という私たちの努力そのものを評価してくださるのでしょう。そういう意味では、点数のみで合否を決められる受験よりも努力の甲斐があります。

 

 発菩提心真言

   オン ボウジシッタ ボダハダヤミ (私は 菩提心を 発こします)

 三昧耶戒真言

   オン サンマヤ サトバン (私は 仏様と 同じ境地にあります)

 

 是非、勤行の際にお唱えして、目の前にいらっしゃる仏様と、自分の中にいる仏様を喜ばせてあげてください。

 

教祖様おことわり

 昔、学習塾で働いていた頃の事です。

 今はどうか分かりませんが、当時は出席簿に生徒の情報として知能指数(IQ)が記されていました(自分自身も、その塾のOBでしたので、小学3年生のときには自分の知能指数を知る羽目になりました)。

 たしかに、上位のクラスの方がIQの高い生徒が多かったです。地域によってもばらつきがあり、京大の御膝元に存在している校の上位クラスともなると学者さんのご子弟が多いせいか、150台がゴロゴロしていて、自分なんかがこのクラスを教えてもいいんだろうかと思ったりもしました。

 ただ、IQが成績に直結しないということも確信できました。

 

 実際、IQが唯一無二の成功条件でないことは自明の理で、他にも重要なパラメーターがあることが指摘されてきました。

 たとえば、EQです。「心の知能指数」などと言われることもあります。空気が読めない、相手の気持ちを慮ることができないというのでは、いくらIQが高くても、それを十分に生かすことができないかもしれません。

 

 他にもAQ(達成指数)とかDQ(良識指数)とか、さらには子供のころに豊かな社会体験をすることで後天的に育まれるPQなんていうのもあるようです。

 

 話を戻しますが、自分が塾で教えているときに、IQ以外に最も大切であると思っていたのは「素直であること」でした。希学園の前田卓郎先生も同じことを仰っていたように思います。

 実績のある大手塾の強みはノウハウです。これだけのことをやれば合格できるというデータがあるわけです。それなら全員合格できる理屈になるじゃないか、というかもしれませんが、実際にはそのノルマをこなすことができない人が大多数なのです。能力的に難しい場合もあるのですが、そのノウハウに全幅の信頼を置くことができないために無駄なことをしてしまっているケースもあります。

 中長期的な結果を見ずに目先の結果に右往左往して、やるべきこともやらずして家庭教師(しかもプロではない)をつけたり・・・。

 親が不安を顔に出したり、口に出したり、ましてや「あの先生(塾)で大丈夫かしら」なんて言ってしまったら、生徒は自信をもって勉強できるはずもなく「詰み」は見えています。

 

 今回は何の話なんだ?と思われたかも知れません。いよいよ本筋に入ります。

 

 宗教も同じではないでしょうか。

 仏教には2500年の歴史があります。すごい実績です。そして、とんでもない天才たちが少しずつアップデートしてくださったほぼ完成品の宗教です。

 日本の仏教に限って見てもそうです。

 弘法大師最澄さんの平安仏教、そして鎌倉新仏教のお祖師様たちはどの方もとんでもない方たちです。自分たちが覚りを得るのもすごいですが、凡夫であるパンピーをいかに覚りに導くかというメソッドを苦心して確立してくれたのが各宗派の教義です。

 

 真言宗について申し上げると、ひとつ間違えると迷路に入り込みそうな難解な宗派なのですが、そのために、弘法大師は攻略本ともいうべき沢山の著作を残してくださっています。もっともそれすら難解ですので、色々な先達の方々の力を借りて理解する必要があるのですが。

 我々が行う行法についても、数々の大徳によって次第として確立しており、それを忠実に修すればよいだけです。

 

 よく密教は、在家の人が一緒に唱えたりできないお経や声明をあげて、不親切だと不満を言う方もおられますが、理趣経のような難しいお経をあげなくても、在家用の勤行次第にある般若心経でも十分なことは、先にもあげたお大師様の攻略本のひとつ『般若心経秘鍵』でも分かります。

 少し、本格的な「行」のようなことをしたいのであれば、「阿字観」「阿息観」「月輪観」などの瞑想を行うこともできます。決して閉鎖的な宗派ではありません。

 

 以前に社会人向けに真言宗の講師をしていたことは書いたと思います。

 そのときには、けっこうな割合で「教祖様」がいました。

 その「教祖様」というのは、真言宗の教えや作法をちゃんとトレースするのではなく、都合の良いところだけをつまんで、場合によっては他の宗派や民間信仰のような類とくっつけてオリジナルのものを作ってしまうのです。

 

 自分は、新興宗教を否定するわけではありません。真言宗だって鎌倉新仏教だって、いやそもそも仏教だって、当時は新興宗教だったわけですから。

 また先ほども、仏教はその都度アップデートして「ほぼ完成」していると申し上げました。時世に応じて、まだまだ変化、改良すべき余地も残されていると思います。でも、それができる人というのは、ごくごく特別な人だと思います。

 それなのに、わざわざ、先師さんたちが拓いてくださった道を歩かずに、獣道を分け入りショートカットできるという「教祖様」の自信はどこからくるのでしょう。

 

 繰り返しますが、それぞれのお祖師様たちは、「これこれのことをすれば覚ることができます」というノウハウを提示してくださっています。

 ただし、それこそが難しいです。 合格のためのノウハウと同じです。

 しかし、そこでバタバタして、あっちの宗教の方が楽そうだとか、家庭教師をつけるかのように、宗派を複数組み合わせた方が効果的では?なんていうのは逆効果でしょう。

 結果的に、自分に合わない、ということで、宗派を変えることになるのは仕方ないかもしれません。それでもまず、家の宗派であったり、縁のあった宗派に全幅の信頼をおいて信仰してからではいかがでしょうか。

 

僧侶の時給?

 あるご住職とお話をしていたときのことです。

 そこは新興のお寺さんなのですが、葬儀会社や僧侶派遣業者や霊園など幅広いコネクションをもち、それに対応できるだけの多くの僧侶を抱えているのが強みです。

 ただ、それだけの業者とコネがあるのには当然理由があり、紹介マージンやキックバックが大きいわけです。自分も以前、そこの法務を手伝っていたこともありますので知っているのですが、中には葬儀のお布施のうち6割以上を「キャッシュバック」しないとダメな業者もありました。

 このときも、法務のお布施の話をしていたときでしたが、横に居られたご住職の奥様が「お布施が安いとか言ったらだめよね。時給でいったらものすごく高いんだから。」とおっしゃいました。とりあえず、適当に相槌をうって、愛想笑いをしていましたが、何だか釈然としない思いでした。

 

 後々、そういえば・・・と思いだしたことがありました。

 昔、塾講師をしていたときのことです。当時は、バブルがはじけた後でしたが、教育産業の景気は良く、先日亡くなった「金ピカ先生」が予備校講師としては異例の契約金付きで移籍したなんていう時期でもありました。

 自分は、中学受験の算数担当でしたが、時給にすると5000円くらいでした。

 すると、先輩の講師の方が言いました

 「この時給を高いと思う?」

 自分は

 「高いと思います。」

と答えたところ、

 「そう思っていては駄目だね。塾講師は最低でも授業の時間と同じ時間をかけて授業の準備をする。そして、授業の後は、やはり同じ時間をかけて問題点を洗い出したりする。他にも入試問題の分析など、授業以外にやることは沢山ある。だから実際の時給は÷3や÷4にもなる。だから、塾講師の時給は安いんだよ。」

と言われました。

 

 なるほど、「僧侶の時給」も同じなのかなと思いました。

 残念なことに、お布施の封筒に「お経代」と書いてくる方もいらっしゃいますが、自分たちが受け取るのは、その時間にその場所でお経をあげたことの一点に対する対価ではないはずです。

 

 以前に、あるお寺さんの檀家さんと話をしたときに、こんなことを言っておられました。

 「うちの住職は、歳を取って声も出ないし、法話にしても、前に話したことを忘れて、同じ話をしたりする。でも、それでもありがたいんだ。」

 檀家さんだからこそ、そのご住職の人となりをよく知っておられるのでしょう。だからこそ、このような気持ちになるのでしょう。「お経」や「法話」を商品として見ていないわけです。

 

 天台宗さんでは、荒行として知られる千日回峰行というものがあります。まさに命懸けの行で、だからこそ土足での参内が許されるなど特別な尊敬を集めるわけです。

 仮に、そんなすごい方が葬儀をしてくれたとして、少々お経を間違えたとしても、そこにクレームをつける人はいないでしょうし、少々高いお布施でも喜んでお渡しするのではないでしょうか。それは、そのお坊さん自身とそのバックグラウンドを含めた全てに対する感謝が込められているからだと思います。

 

 僧侶といっても、いろいろな方がいらっしゃることは以前にも書きました。どの段階まで修行が進んでいるかという違いもありますが、普段どのように生活されているかという違いもあります。

 中には、寺に出入りもせず、夫も子供もいらして、普段は妻や母として過ごしているのに、僧侶としての「業務」のときだけは「ありがたい尼僧さん」になる方も知っています。ちなみに普段はカツラをつけているそうです。

 また、ウイークデイはリーマンをしていて、法務の繁忙期である土日だけ、僧侶の「業務」にいそしんでいる方も知っています。

 お経も法話も作法も、「フルタイム僧侶」より素晴らしいのかも知れません。

 でも、自分ならたとえお経が下手でも、日々ご本尊様に灯明をあげ、香を焚き、手を合わせて、行法をしている坊さんに拝んでほしいです。

 

 以前にも書きましたが、僧侶は「職業」ではなく「状態」であり「生き様」です。葬儀や回忌法要は「業務」ではなく「法務」です。法務に対する布施は、その僧侶の生き様とその僧侶が身を捧げてお仕えしている仏様へのものだと思います。

 

 高いお布施と思われないような生き様を心がけたいものです。

NO 懺悔(さんげ) NO 仏教

 先日、お寺にいらした方が、普段家で拝んでいる勤行の次第を見せて、「これでいいですか?」と尋ねられました。 

 色々な経を組み合わせてあり、熱心な方だと思いましたが、気になったことがありましたのでこう申し上げました。

 「懺悔文を唱えてから色々な経をあげた方がよいのではないですか。」

 

 拙寺での朝勤でも、斎場では「礼文」を真っ先に唱えますが、その中でまずは懺悔をし、さらに護摩堂でも「密厳院発露懺悔文」という僧侶向けの懺悔をしてから、理趣経などの読経に入ります。

 

 勤行次第(お経や真言を唱える順番)に、決まりはないのですが、ある程度のフォーマットはあります。例えるなら、仏様へ手紙を書くようなものです。

 今は、メールでちょこっと用件だけを伝えることが多くなりましたが、手紙では、「拝啓」などの頭語、時候の挨拶を述べてから本文を書き、最後に結びの挨拶と「敬具」などの結語で締めます。

 簡単なお経や真言だけを唱えるのならば、「一筆箋」のようなものですから、それだけでもよいでしょうが、本文にあたるお経だけが盛りだくさんで、懺悔もしないというのは、時候の挨拶で相手を気遣うこともせずに、自分の用件だけをベラベラと述べるようなもので、みっともない様に思います。

 以前にも書いたと思いますが、懺悔文、開経偈ではじめて、回向文で締めるというのが、勤行の基本的なフォーマットです。

 

 懺悔の対象は、数々の破戒です。

 仏教徒であれば、在俗を問わずに守るべき戒として十善戒があります。詳しくは別のところで書いていますので、ここではごく簡単に挙げておきます。

   不殺生(ふせっしょう) むやみにに生き物を殺さない。

   不偸盗(ふちゅうとう) 他人のものを自分のものとしない。

   不邪淫(ふじゃいん) 道徳に外れた異性関係を持たない。

   不妄語(ふもうご) 嘘をつかない。

   不綺語(ふきご) 中身の無い言葉を話さない。

   不悪口(ふあっく) 乱暴な言葉を使わない。

   不両舌(ふりょうぜつ) 和を乱すようなことを言わない。 

   不慳貪(ふけんどん) 激しい欲をいだかない。

   不瞋恚(ふしんに) 激しい怒りをいだかない。

   不邪見(ふじゃけん) よこしまな見解を持たない。

 

 僧侶なら、受戒という儀式があって、高野山の場合、三日間にわたって多くの戒を授かります。

 ある高名な僧侶の方は、こんなに沢山の、しかもどうせ守ることのできない戒を授けても、戒を破る罪を増やすだけだ、と仰って否定的な見解をのべています。

 たしかに、一番基本的な十善戒でさえ、守ることは困難です。

 しかし、だからといって、戒を守ろうと誓いを立てることは無駄ではないでしょう。少なくとも、人として最高の美しい姿を意識するということは大切です。

 専門的な言葉では戒を授かると「戒體(かいたい)」というものが内心に作られて、防非止悪の作用があるとされているのも同じ意味でしょう。

 

 しかし、それでも戒を破ってしまい、様々な罪を犯すのが私たちです。ですから、そのたびに懺悔をして、再度、戒を守る誓いを立てるのです。

 

 最近、過去のいじめでオリンピックの大役を下りる羽目になった人がいましたね。

 あのときに、「マグタラのマリア」の例を出して、擁護している人もいました。

 姦通罪を犯して、リンチさながらの石打ち刑に遭おうとしているマグタラのマリアとその周囲の人に対して、イエス様が「罪のない人から石を投げなさい」と言ったところ、そこには誰も残らなかったという聖書のお話です。

 本人が罪を犯したことのない人でもないのに、自分のことを棚に上げて人の非を責め立てるのはおかしいという論理ですね。

 たしかに、生まれてこのかた、罪を犯したことが一度も無いなんていう清廉潔白な人なんてほとんどいないでしょう。

 しかし、多くの人が今回の件で嫌悪したのは、罪を犯したこと(いじめの内容としてもあり得ないレベルでしたけど)よりも、それに対する懺悔や反省がなく、「武勇伝」のように嬉々として語っていた点だったように思います。

 

 中には、懺悔をしたって、また罪を犯すんでしょ。所詮人間なんてそんなもんだよ。だから無駄なことはしない、と言う人も居るかもしれません。

 でも、それって、どうせすぐに汚れるのだから、お風呂にも入らないし手も洗わないって言っているのと同じような幼稚な理屈ではないでしょうか。

 私たちは風呂上がりのような罪のない清らかな状態が心地よいことを知っています。だから、罪を犯したときに、もやもやした気持ちであったり、自己嫌悪に陥ったりするわけです。

 汚れに慣れてしまうことは恐ろしいことです。日々、犯罪行為に慣れてしまうと規範意識がどんどん希薄になるようなり、罪の意識すら無くなっていくようなものです。

 

 ですから、定期的に懺悔をして本来の綺麗な姿にリセットする必要があります。

 とはいえ、「日に三省す」というのはなかなか難しいでしょう。

 そこで、仏壇に手を合わせる機会ごとに、仏様の前で「シャワー浴びる」くらいが良いのではないでしょうか。

 

最後に「懺悔文」を記しておきます。

   我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)

   皆由無始貪瞋痴(かいゆむしとんじんち)

   従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)

   一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

お経とともにお唱え頂ければと存じます。

 

※ 令和三年夏(8月) 寺報の内容を加筆修正したものです。

 

不瞋恚

 十善戒も終盤です。今日は9番目の戒である不瞋恚(ふしんに)です。

  「瞋」も「恚」も「いかり」を意味する文字です。要は、怒らないという戒です。

 人間である以上、頭にくる感情が無いなんていうのは、動物としてむしろ不自然かもしれません。そこで、人によっては、「激しく」怒らないことと限定的に定義づけしている場合もあるようです。

 

 オカルトっぼい話ですので、苦手な方は聞き流してください。

 自分が、祈祷系の伝授を受けた大徳は高名な方なのですが、その方の師僧さんもものすごく法力の強い方だったそうです。ただ、気性の激しい方でもあったそうです。

 あるときは、信者さんが失礼なことをしたことに対して、怒り心頭だったそうで、罵詈雑言を浴びせたそうです。そして、それから間もなくして、その信徒さんは亡くなったそうです。偶然かもしれませんが。

 その僧侶の方自身が亡くなる際には、筆舌に尽くしがたい苦しみだったそうです。その弟子の方が駆けつけて、必死で祈って、ようやく穏やかに息を引き取られたそうです。

 よく、祈祷系の行者さんは、亡くなるときは悲惨な状態になるなんて言います。法力が強いからこそ、コントロールを間違うことで、悪い業を積みやすいからだとも言います。

 ですから、怒りに流されてはいけない。また、自然の理に反する祈祷はしてはいけないとも仰っていました。実際、その方のところには、「ひどい奴がいるので呪い殺してください。」などという依頼もあるそうですが、「自分は殺し屋ではないです。」と断ったという話が著作の中にありました。

 

 怒りがよくないというのは古今東西共通の様で、海外由来のものでは、怒りをコントロールする「アンガーマネージメント」というものがあります。自分も詳しくはありませんが、怒りをすべて否定するわけではないようです。

 ムカっとする感情は仕方ないとして、それを暴発させないように、鎮めていくテクニックといった感じでしょうか。

 いろいろ方法はあるようですが、怒りの感情は長く持続するものではないので、10秒程度数を数えるだけでも効果があるようです。

 客観的に、自分を見つめて、怒りの根本的な原因は何なのかを分析するのも効果的だったりするようです。

 

 クレーム対応をする電話オペレーターさんの職場での話です。来る日も来る日もクレーム対応、売り言葉に買い言葉になることもあり、あまりうまく回っていなかったそうです。

 ところが、あることをすると、事態が好転したそうです。

 何をしたかと言いますと、電話のそばに鏡をおいたそうです。

 クレームに対して、うんざりして腹を立てる自分の顔が見えるようにしたわけです。

 その醜い姿に、ハッと我に返り、冷静にクレーム対応ができるようになったそうです。

 

 葬儀で、戒名を考えるにあたり、故人のご家族にお人柄を伺います。その際に、「怒るところを見たことのない穏やかな人でした。」と言われる方がおられます。本当にすごい方だったのだと感心するとともに、自分もそうありたいと思います。

 その人をイメージしたときに、笑顔が思い浮かぶような人になりたいものです。

 

 実際、怒ると健康に良くないのは確かなようです。自律神経が乱れたり、活性酸素が発生したりと、こちらはオカルトではありません。

 とはいえ、怒りをため込むのもストレスになります。自分なりにうまくコントロールする方法を見つけてみてください。

 

 ※ 令和三年八月 薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

お供え 

 最近、葬儀が簡略化されてきたのは、色々なところで話されているとおりです。

 

 葬儀の作法の中で、供物を加持する場面があるのですが、いざ印を結んで加持をしようとすると、祭壇には一切供物が上がっていなくて、一瞬フリーズしたなんていうこともあります。

 御膳はなくても、茶碗一杯に持ったご飯に一本箸だったり、お団子を積んだもの、いわゆる「枕飯」「枕団子」なんかは最低限用意してほしいなあ、と思います。

 寺の周辺の葬儀社は、いまだにちゃんとお膳を用意してくださいますし、式中初七日であっても、初七日の分は別にお膳を用意してくれていますが、全国レベルの中では、レアなケースになっているのかもしれません。

 

 最近、葬儀をした方たちの供物は、ステレオタイプではないものだったこともあり、心に残るものでした。

 

 ある方は、ミスタードーナツでした。

 故人様が甘いもの好きだっというのは聞いていたので納得でした。用意された身内の方が「本当は、ダンキンドーナツが好きだったんだけど、今は手にはいらないから・・・」なんていうお話を、出棺前の思い出話としてされているのもほほえましかったです。

 

 ある方は、いもけんぴでした。

 故人様は高知県出身。スーパーで調達したものではなく、わざわざ高知県のアンテナショップで探してこられたこだわりのものだったようです。

 

 ある方は、コーラでした。

 最後に末期の水のように、綿を使ってお酒で口を湿らせてあげる方は今までにもいらっしゃったのですが、コーラは初めてでした。炭酸飲料がお好きだったそうで、最後の頃は、病気のせいで飲めなくなって辛かっただろうということで、かわるがわる皆さんで飲ませてあげている姿は、故人様の人柄が偲ばれて素敵でした。

 

 つい先日は、マグロの切り身でした。

 納めて下さったのは、近所の方たち。故人様のことを昔からよく知っているご近所さんだからできることでした。

 

 大分前には、肉が好きだったということで、ステーキが供えられていたり、あるときは、お酒が好きだったということでお酒が供えられていたり、しかも銘柄がよりによって「閻魔」だったなんていうこともありました。そのころは「不精進」なものを供物にされるのに少し抵抗がありました。

 でも、今は少し違います。

 

 昔、ある悲惨な事件現場にお供えされているお菓子などの供物を勝手に盗って食べ散らかした連中がいて、騒動になったことがありました。

 なるほど、死者が物理的に供物を消費することはありません。それならば、傷んでしまう前に生身の人間が食べてやる方が合理的という言い分もあるでしょう。

 でも、そのときの世論の反応はそうではありませんでした。死者への供物に手を出すことはタブーとする人が多かったようです。

 

 話は異なりますが、コンビニのレジ前にある寄付金を盗んだ人が、通常よりも重い刑罰を科せられたという事件もありました。金額もさほどではなかったのですが、人の善意で積み上げられた金銭に手を出したということが、情状として加味された判決でした。

 

 前者のお菓子にしても、後者のお金にしても、物理的にはスーパーの陳列台に並ぶお菓子であったり、銀行に預けられているお金などと何ら区別はできません。

 しかし、私たちがそこに差異を認めたくなるのは、そこに込められた「人の思い」を尊く思っているからでしょう。

 

 七月盆が終わり、今度は八月盆です。拙寺ではほとんどの檀家さんは七月盆ですが、八月盆の地域の檀家さんも何軒かあります。世間的には八月盆がメジャーでしょう。

 盆飾りをどうするか、供物をどうしたらよいか等、問い合わせをして下さる方もおられますが、地域によってバラバラなのが実情です。しかも、仏教的な意味ではなく、習俗に依拠していることも多いです。

 

 前述の通り、仏様や故人様への供物は、物そのものと一緒に心を供えているものです。

 お盆は、ご先祖様の夏休みであったり、里帰りみたいなものです。

 難しく考えずに、故人様の好物を供えてあげて、一緒に食事を楽しむことが大切だと思います。