僧侶の時給?

 あるご住職とお話をしていたときのことです。

 そこは新興のお寺さんなのですが、葬儀会社や僧侶派遣業者や霊園など幅広いコネクションをもち、それに対応できるだけの多くの僧侶を抱えているのが強みです。

 ただ、それだけの業者とコネがあるのには当然理由があり、紹介マージンやキックバックが大きいわけです。自分も以前、そこの法務を手伝っていたこともありますので知っているのですが、中には葬儀のお布施のうち6割以上を「キャッシュバック」しないとダメな業者もありました。

 このときも、法務のお布施の話をしていたときでしたが、横に居られたご住職の奥様が「お布施が安いとか言ったらだめよね。時給でいったらものすごく高いんだから。」とおっしゃいました。とりあえず、適当に相槌をうって、愛想笑いをしていましたが、何だか釈然としない思いでした。

 

 後々、そういえば・・・と思いだしたことがありました。

 昔、塾講師をしていたときのことです。当時は、バブルがはじけた後でしたが、教育産業の景気は良く、先日亡くなった「金ピカ先生」が予備校講師としては異例の契約金付きで移籍したなんていう時期でもありました。

 自分は、中学受験の算数担当でしたが、時給にすると5000円くらいでした。

 すると、先輩の講師の方が言いました

 「この時給を高いと思う?」

 自分は

 「高いと思います。」

と答えたところ、

 「そう思っていては駄目だね。塾講師は最低でも授業の時間と同じ時間をかけて授業の準備をする。そして、授業の後は、やはり同じ時間をかけて問題点を洗い出したりする。他にも入試問題の分析など、授業以外にやることは沢山ある。だから実際の時給は÷3や÷4にもなる。だから、塾講師の時給は安いんだよ。」

と言われました。

 

 なるほど、「僧侶の時給」も同じなのかなと思いました。

 残念なことに、お布施の封筒に「お経代」と書いてくる方もいらっしゃいますが、自分たちが受け取るのは、その時間にその場所でお経をあげたことの一点に対する対価ではないはずです。

 

 以前に、あるお寺さんの檀家さんと話をしたときに、こんなことを言っておられました。

 「うちの住職は、歳を取って声も出ないし、法話にしても、前に話したことを忘れて、同じ話をしたりする。でも、それでもありがたいんだ。」

 檀家さんだからこそ、そのご住職の人となりをよく知っておられるのでしょう。だからこそ、このような気持ちになるのでしょう。「お経」や「法話」を商品として見ていないわけです。

 

 天台宗さんでは、荒行として知られる千日回峰行というものがあります。まさに命懸けの行で、だからこそ土足での参内が許されるなど特別な尊敬を集めるわけです。

 仮に、そんなすごい方が葬儀をしてくれたとして、少々お経を間違えたとしても、そこにクレームをつける人はいないでしょうし、少々高いお布施でも喜んでお渡しするのではないでしょうか。それは、そのお坊さん自身とそのバックグラウンドを含めた全てに対する感謝が込められているからだと思います。

 

 僧侶といっても、いろいろな方がいらっしゃることは以前にも書きました。どの段階まで修行が進んでいるかという違いもありますが、普段どのように生活されているかという違いもあります。

 中には、寺に出入りもせず、夫も子供もいらして、普段は妻や母として過ごしているのに、僧侶としての「業務」のときだけは「ありがたい尼僧さん」になる方も知っています。ちなみに普段はカツラをつけているそうです。

 また、ウイークデイはリーマンをしていて、法務の繁忙期である土日だけ、僧侶の「業務」にいそしんでいる方も知っています。

 お経も法話も作法も、「フルタイム僧侶」より素晴らしいのかも知れません。

 でも、自分ならたとえお経が下手でも、日々ご本尊様に灯明をあげ、香を焚き、手を合わせて、行法をしている坊さんに拝んでほしいです。

 

 以前にも書きましたが、僧侶は「職業」ではなく「状態」であり「生き様」です。葬儀や回忌法要は「業務」ではなく「法務」です。法務に対する布施は、その僧侶の生き様とその僧侶が身を捧げてお仕えしている仏様へのものだと思います。

 

 高いお布施と思われないような生き様を心がけたいものです。

NO 懺悔(さんげ) NO 仏教

 先日、お寺にいらした方が、普段家で拝んでいる勤行の次第を見せて、「これでいいですか?」と尋ねられました。 

 色々な経を組み合わせてあり、熱心な方だと思いましたが、気になったことがありましたのでこう申し上げました。

 「懺悔文を唱えてから色々な経をあげた方がよいのではないですか。」

 

 拙寺での朝勤でも、斎場では「礼文」を真っ先に唱えますが、その中でまずは懺悔をし、さらに護摩堂でも「密厳院発露懺悔文」という僧侶向けの懺悔をしてから、理趣経などの読経に入ります。

 

 勤行次第(お経や真言を唱える順番)に、決まりはないのですが、ある程度のフォーマットはあります。例えるなら、仏様へ手紙を書くようなものです。

 今は、メールでちょこっと用件だけを伝えることが多くなりましたが、手紙では、「拝啓」などの頭語、時候の挨拶を述べてから本文を書き、最後に結びの挨拶と「敬具」などの結語で締めます。

 簡単なお経や真言だけを唱えるのならば、「一筆箋」のようなものですから、それだけでもよいでしょうが、本文にあたるお経だけが盛りだくさんで、懺悔もしないというのは、時候の挨拶で相手を気遣うこともせずに、自分の用件だけをベラベラと述べるようなもので、みっともない様に思います。

 以前にも書いたと思いますが、懺悔文、開経偈ではじめて、回向文で締めるというのが、勤行の基本的なフォーマットです。

 

 懺悔の対象は、数々の破戒です。

 仏教徒であれば、在俗を問わずに守るべき戒として十善戒があります。詳しくは別のところで書いていますので、ここではごく簡単に挙げておきます。

   不殺生(ふせっしょう) むやみにに生き物を殺さない。

   不偸盗(ふちゅうとう) 他人のものを自分のものとしない。

   不邪淫(ふじゃいん) 道徳に外れた異性関係を持たない。

   不妄語(ふもうご) 嘘をつかない。

   不綺語(ふきご) 中身の無い言葉を話さない。

   不悪口(ふあっく) 乱暴な言葉を使わない。

   不両舌(ふりょうぜつ) 和を乱すようなことを言わない。 

   不慳貪(ふけんどん) 激しい欲をいだかない。

   不瞋恚(ふしんに) 激しい怒りをいだかない。

   不邪見(ふじゃけん) よこしまな見解を持たない。

 

 僧侶なら、受戒という儀式があって、高野山の場合、三日間にわたって多くの戒を授かります。

 ある高名な僧侶の方は、こんなに沢山の、しかもどうせ守ることのできない戒を授けても、戒を破る罪を増やすだけだ、と仰って否定的な見解をのべています。

 たしかに、一番基本的な十善戒でさえ、守ることは困難です。

 しかし、だからといって、戒を守ろうと誓いを立てることは無駄ではないでしょう。少なくとも、人として最高の美しい姿を意識するということは大切です。

 専門的な言葉では戒を授かると「戒體(かいたい)」というものが内心に作られて、防非止悪の作用があるとされているのも同じ意味でしょう。

 

 しかし、それでも戒を破ってしまい、様々な罪を犯すのが私たちです。ですから、そのたびに懺悔をして、再度、戒を守る誓いを立てるのです。

 

 最近、過去のいじめでオリンピックの大役を下りる羽目になった人がいましたね。

 あのときに、「マグタラのマリア」の例を出して、擁護している人もいました。

 姦通罪を犯して、リンチさながらの石打ち刑に遭おうとしているマグタラのマリアとその周囲の人に対して、イエス様が「罪のない人から石を投げなさい」と言ったところ、そこには誰も残らなかったという聖書のお話です。

 本人が罪を犯したことのない人でもないのに、自分のことを棚に上げて人の非を責め立てるのはおかしいという論理ですね。

 たしかに、生まれてこのかた、罪を犯したことが一度も無いなんていう清廉潔白な人なんてほとんどいないでしょう。

 しかし、多くの人が今回の件で嫌悪したのは、罪を犯したこと(いじめの内容としてもあり得ないレベルでしたけど)よりも、それに対する懺悔や反省がなく、「武勇伝」のように嬉々として語っていた点だったように思います。

 

 中には、懺悔をしたって、また罪を犯すんでしょ。所詮人間なんてそんなもんだよ。だから無駄なことはしない、と言う人も居るかもしれません。

 でも、それって、どうせすぐに汚れるのだから、お風呂にも入らないし手も洗わないって言っているのと同じような幼稚な理屈ではないでしょうか。

 私たちは風呂上がりのような罪のない清らかな状態が心地よいことを知っています。だから、罪を犯したときに、もやもやした気持ちであったり、自己嫌悪に陥ったりするわけです。

 汚れに慣れてしまうことは恐ろしいことです。日々、犯罪行為に慣れてしまうと規範意識がどんどん希薄になるようなり、罪の意識すら無くなっていくようなものです。

 

 ですから、定期的に懺悔をして本来の綺麗な姿にリセットする必要があります。

 とはいえ、「日に三省す」というのはなかなか難しいでしょう。

 そこで、仏壇に手を合わせる機会ごとに、仏様の前で「シャワー浴びる」くらいが良いのではないでしょうか。

 

最後に「懺悔文」を記しておきます。

   我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)

   皆由無始貪瞋痴(かいゆむしとんじんち)

   従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)

   一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

お経とともにお唱え頂ければと存じます。

 

※ 令和三年夏(8月) 寺報の内容を加筆修正したものです。

 

不瞋恚

 十善戒も終盤です。今日は9番目の戒である不瞋恚(ふしんに)です。

  「瞋」も「恚」も「いかり」を意味する文字です。要は、怒らないという戒です。

 人間である以上、頭にくる感情が無いなんていうのは、動物としてむしろ不自然かもしれません。そこで、人によっては、「激しく」怒らないことと限定的に定義づけしている場合もあるようです。

 

 オカルトっぼい話ですので、苦手な方は聞き流してください。

 自分が、祈祷系の伝授を受けた大徳は高名な方なのですが、その方の師僧さんもものすごく法力の強い方だったそうです。ただ、気性の激しい方でもあったそうです。

 あるときは、信者さんが失礼なことをしたことに対して、怒り心頭だったそうで、罵詈雑言を浴びせたそうです。そして、それから間もなくして、その信徒さんは亡くなったそうです。偶然かもしれませんが。

 その僧侶の方自身が亡くなる際には、筆舌に尽くしがたい苦しみだったそうです。その弟子の方が駆けつけて、必死で祈って、ようやく穏やかに息を引き取られたそうです。

 よく、祈祷系の行者さんは、亡くなるときは悲惨な状態になるなんて言います。法力が強いからこそ、コントロールを間違うことで、悪い業を積みやすいからだとも言います。

 ですから、怒りに流されてはいけない。また、自然の理に反する祈祷はしてはいけないとも仰っていました。実際、その方のところには、「ひどい奴がいるので呪い殺してください。」などという依頼もあるそうですが、「自分は殺し屋ではないです。」と断ったという話が著作の中にありました。

 

 怒りがよくないというのは古今東西共通の様で、海外由来のものでは、怒りをコントロールする「アンガーマネージメント」というものがあります。自分も詳しくはありませんが、怒りをすべて否定するわけではないようです。

 ムカっとする感情は仕方ないとして、それを暴発させないように、鎮めていくテクニックといった感じでしょうか。

 いろいろ方法はあるようですが、怒りの感情は長く持続するものではないので、10秒程度数を数えるだけでも効果があるようです。

 客観的に、自分を見つめて、怒りの根本的な原因は何なのかを分析するのも効果的だったりするようです。

 

 クレーム対応をする電話オペレーターさんの職場での話です。来る日も来る日もクレーム対応、売り言葉に買い言葉になることもあり、あまりうまく回っていなかったそうです。

 ところが、あることをすると、事態が好転したそうです。

 何をしたかと言いますと、電話のそばに鏡をおいたそうです。

 クレームに対して、うんざりして腹を立てる自分の顔が見えるようにしたわけです。

 その醜い姿に、ハッと我に返り、冷静にクレーム対応ができるようになったそうです。

 

 葬儀で、戒名を考えるにあたり、故人のご家族にお人柄を伺います。その際に、「怒るところを見たことのない穏やかな人でした。」と言われる方がおられます。本当にすごい方だったのだと感心するとともに、自分もそうありたいと思います。

 その人をイメージしたときに、笑顔が思い浮かぶような人になりたいものです。

 

 実際、怒ると健康に良くないのは確かなようです。自律神経が乱れたり、活性酸素が発生したりと、こちらはオカルトではありません。

 とはいえ、怒りをため込むのもストレスになります。自分なりにうまくコントロールする方法を見つけてみてください。

 

 ※ 令和三年八月 薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

お供え 

 最近、葬儀が簡略化されてきたのは、色々なところで話されているとおりです。

 

 葬儀の作法の中で、供物を加持する場面があるのですが、いざ印を結んで加持をしようとすると、祭壇には一切供物が上がっていなくて、一瞬フリーズしたなんていうこともあります。

 御膳はなくても、茶碗一杯に持ったご飯に一本箸だったり、お団子を積んだもの、いわゆる「枕飯」「枕団子」なんかは最低限用意してほしいなあ、と思います。

 寺の周辺の葬儀社は、いまだにちゃんとお膳を用意してくださいますし、式中初七日であっても、初七日の分は別にお膳を用意してくれていますが、全国レベルの中では、レアなケースになっているのかもしれません。

 

 最近、葬儀をした方たちの供物は、ステレオタイプではないものだったこともあり、心に残るものでした。

 

 ある方は、ミスタードーナツでした。

 故人様が甘いもの好きだっというのは聞いていたので納得でした。用意された身内の方が「本当は、ダンキンドーナツが好きだったんだけど、今は手にはいらないから・・・」なんていうお話を、出棺前の思い出話としてされているのもほほえましかったです。

 

 ある方は、いもけんぴでした。

 故人様は高知県出身。スーパーで調達したものではなく、わざわざ高知県のアンテナショップで探してこられたこだわりのものだったようです。

 

 ある方は、コーラでした。

 最後に末期の水のように、綿を使ってお酒で口を湿らせてあげる方は今までにもいらっしゃったのですが、コーラは初めてでした。炭酸飲料がお好きだったそうで、最後の頃は、病気のせいで飲めなくなって辛かっただろうということで、かわるがわる皆さんで飲ませてあげている姿は、故人様の人柄が偲ばれて素敵でした。

 

 つい先日は、マグロの切り身でした。

 納めて下さったのは、近所の方たち。故人様のことを昔からよく知っているご近所さんだからできることでした。

 

 大分前には、肉が好きだったということで、ステーキが供えられていたり、あるときは、お酒が好きだったということでお酒が供えられていたり、しかも銘柄がよりによって「閻魔」だったなんていうこともありました。そのころは「不精進」なものを供物にされるのに少し抵抗がありました。

 でも、今は少し違います。

 

 昔、ある悲惨な事件現場にお供えされているお菓子などの供物を勝手に盗って食べ散らかした連中がいて、騒動になったことがありました。

 なるほど、死者が物理的に供物を消費することはありません。それならば、傷んでしまう前に生身の人間が食べてやる方が合理的という言い分もあるでしょう。

 でも、そのときの世論の反応はそうではありませんでした。死者への供物に手を出すことはタブーとする人が多かったようです。

 

 話は異なりますが、コンビニのレジ前にある寄付金を盗んだ人が、通常よりも重い刑罰を科せられたという事件もありました。金額もさほどではなかったのですが、人の善意で積み上げられた金銭に手を出したということが、情状として加味された判決でした。

 

 前者のお菓子にしても、後者のお金にしても、物理的にはスーパーの陳列台に並ぶお菓子であったり、銀行に預けられているお金などと何ら区別はできません。

 しかし、私たちがそこに差異を認めたくなるのは、そこに込められた「人の思い」を尊く思っているからでしょう。

 

 七月盆が終わり、今度は八月盆です。拙寺ではほとんどの檀家さんは七月盆ですが、八月盆の地域の檀家さんも何軒かあります。世間的には八月盆がメジャーでしょう。

 盆飾りをどうするか、供物をどうしたらよいか等、問い合わせをして下さる方もおられますが、地域によってバラバラなのが実情です。しかも、仏教的な意味ではなく、習俗に依拠していることも多いです。

 

 前述の通り、仏様や故人様への供物は、物そのものと一緒に心を供えているものです。

 お盆は、ご先祖様の夏休みであったり、里帰りみたいなものです。

 難しく考えずに、故人様の好物を供えてあげて、一緒に食事を楽しむことが大切だと思います。

薬師護摩の表白

 先日、施餓鬼供養の表白を紹介しました。

 今回は、毎月8日10時より行っている薬師護摩の表白を紹介します。

 こんな格調高いものを、自分が作ったわけではありません。

 基になっているのは、室町時代の高僧印融さんの『諸尊表白集』です。

 タイトルの通り、いろんなご本尊さん向けの表白が載っていて、色々な修法の次第でもこれをベースにしていることが多いようです。

 つくづく、昔のお坊さんっていうのはすごい方ばかりで、自分のようなものが後輩を名乗るのが申し訳ない限りです。

 今回はノーカットでどうぞ。

 

敬って真言教主大日如來兩部界會諸尊聖衆、 別しては 本尊聖者醫王善逝、 日光月光十二神将諸大眷屬、 総じては盡空法界一切の三寶の境界に白して言さく

それ藥師如來といっぱ 本道菩薩行の初には、発すに十二の上願を以ってし、 東方瑠璃界の際には導くに千萬の下愚を以ってす。

内外明徹の惠光は能く惑業煩惱の闇夜を破す。 

像末饒益の威力は廣大慈悲の願望を改めることなし。

この故に 藥壺を開いて秘法を施せば、衆病を速疾に除く。

松筭して与えんに 墾念に随えば 壽域を長生に全うす。

加之、日光月光は左右に居して 定慧の二徳を内心に施す。

十二神将は、後前に従って 持誦の四輩を外相に護る。

八萬四千の夜叉は 守護怠らず。

六道四生の群類は 利益休むことなし。

しかれば則ち、一たび その耳に経れるの少縁なお衆病悉除の功有り。

三業相應の懇誠 なんぞ転業增壽の益を施さらん。

これを以って、護持某甲 壇場を靈地に儲け、 薬師護摩秘法を心門に修す。

もししからば、 病痛を須臾に除滅し、災蘖を刹那に消除せん。

身心安全 恒受快樂 無邊善願 決定圓滿 乃至法界 平等利益

敬って白す。

 

 普段の薬師護摩は息災護摩ですので、この表白を用いています。

 祈願内容は、病気平癒、長命、除災となっています。

 これでは、ウチの薬師護摩に参加しても、金運向上や商売繁盛は期待できないのかな、と心配されるかもしれません。

 

 修法には、四つの種類があります(三種にまとめたり、細かく分けて六種にする場合もあります)。息災、増益(そうやく)、敬愛、降伏(ごうぶく)がそれです。意味は字面からお分かりだと思います。

 

 実際、以前に個別に会社の商売繁盛の祈願を頼まれたときには、増益法で薬師護摩を修しました。

 しかし、一度に多くの方の祈願を一度に受けて修法する場合は、息災で修しています。理由は息災法が汎用性が高く、一般的なものだからです。ちなみに、加行で習うのも不動息災護摩です。

 たとえば、商売繁盛だとすると、息災法でも、商売をするうえで障害となる要素を取り除くということで目的を達成できるわけです。

 

 拙寺では、毎月8日のお薬師様の縁日には、午前10時より護摩を修しております。どなたでもご参加できますので、興味のある方は是非ともおいで下さい。

 

 

 

 

三力偈

 今日は胡瓜加持にご参加くださりありがとうございました。

 加持とは、一般的には仏様の加護のことです。

 真言宗的には、お大師様が「仏日の影」と表現されているように、仏の慈悲が衆生に向けられることを「加」、それを衆生が信心によって受けることを「持」として、その両者が感応する状態を言います。

 

 「加持」、「お加持」というと、病気平癒であるとか商売繁盛であるとか、現世利益的な、ややもすると「低位の」民間信仰に見られがちですが、自身の仏道修行が成就するようにといった願いも仏の加護があってこそです。仏教者である以上、どう呼ぶかは別として仏と自分が感応道交する「加持」は必須であるのではないでしょうか。

 

 その加持が実現するためには、ただ難しいお経やら真言やらを数多くあげて、手から摩擦で火が起こるくらいに数珠を擦ったりしても(高野山真言宗では念珠はジャラジャラ鳴らすのはタブーですけど)、駄目だというのです。

 

 今日の護摩行の中でも、何回か唱えていた「三力偈(さんりきげ)」というものがありますが、ここに答えがあります。

  以我功徳力(いがくどくりき)

  如来加持力(にょらいかじりき)

  及以法界力(ぎゅういほうかいりき)

というものです。

 まずは自分自身が、功徳を積む事。

 そして、仏様が加持の力を向けて下さること。

 しかし、これだけでは足りないというのです。「法界力」というのは、この世のありとあらゆるものの力のことで、それが必要だというのです。

 違う表現をすれば、様々な「縁」と言っても良いかもしれません。

 同じように原因の「種」を蒔いても、結果の「華」が綺麗に咲くかどうかは、よい土壌であったり適度な水であったりといった様々な「縁」が大きく作用するようなものです。

 

 四国の遍路にいったときの話です。関西初のバスツアーの最終回でした。月に一回ずつ、一年以上をかけて四国の八十八か所を巡り、いよいよ満願を迎える回でした。

 その中には全身白衣をまとった、いかにもベテランといった夫婦のおへんろさんがいらっしゃいました。実際、大峯山の入峰修行などにも参加されているとの話もされていました。

 最後の寺を打ち終えて、みな幸せ一杯の気分になっていました。そして、添乗員さんが、みんなの代わりに納経をしてくれていた納経帳や掛軸などを返し始めました。みんな、全部のページや枠が埋まった納経納品を見ては、感慨にふけっていました。

 すると、罵声が響きました。例のご夫婦でした。クレームでした。内容は掛軸に書いた納経の文字が、墨がはねて汚れているというものでした。印刷でもないので、墨がはねるのなんて当たり前だと思うのですが、その方たちは納得いかなかったようで、延々と「責任取れ」だの「何とかしろ」だのと繰り返します。添乗員さんもありったけの謝罪をするのですが、おさまりません。そもそも、添乗員さんには何の責任も無いのですが。

 結果、せっかくみんなが幸せな気持ちでいたバスの中が、修羅場となり、どんよりした気分で帰ってきました。

 

 たしかに、その方たちは、八十八か所のお寺をまわり、一生懸命、さぞかし上手にお経をあげて功徳を積まれたことでしょう。

 また、札所には加持力を有した、仏さまたちやお大師様がいらっしゃったのも間違いないです。

 でも、それだけだったんですね。

 自分とご本尊という仏様しか見えていなかったんですね。ツアーの巡礼では、添乗員さんが重たい納経帳やら掛軸を一手に預かって、納経をしてくれます。そのおかげで、参加者は勤行をすることに専念できるわけです。

 添乗員さんだけではありません。四国の山道をものともせずに最短で届けてくれるドライバーさん、一緒にはげましあう巡礼仲間・・・等々が眼中になかったのです。

 自分たちだけが主役で、仏様が監督・演出のドラマを生きているつもりなのでしょうが、みんながそれぞれのドラマの主役であることを忘れてしまっていたのです。

 

 「山川草木悉有仏性」

 全ての人だけではなく、ありとあらゆるいのちに仏性が宿っているというのが、我が国の仏教共通の認識です。

 みんな等しく仏の子。それぞれが互いに、知ると知らざると沢山の縁でつながり、助け合っている存在であることを忘れてしまっては「法界力」という部分がかけてしまっています。

 

 胡瓜にだって、仏性があると思っていないと、今回の胡瓜加持なんて何とも馬鹿馬鹿しいものに見えることでしょう。

 今日は、「胡瓜菩薩さん」に病気の源を代わりにうけとってもらったことに感謝して、この夏を元気にお過ごしいただければと思います。

 

※ 令和三年七月 薬師護摩、胡瓜加持での法話に加筆修正したものです。

 

  

    

記念得度?冥途の土産?

 先日、度牒についてお話ししましたが、それと関係のあるお話です。

 

 以前に、社会人向けに仏教を教える塾のお手伝いをしたことがあります。

 学問として仏教を学ぶという面だけではなく、実践的な部分も体験してもらい、やる気のある方は得度を目指すといったところでした。自分はもちろん、真言宗コースの担当でした。

 短い期間でしたが、色々な方がいらっしゃいました。

 信仰心は希薄で、カルチャーセンターのノリ、修了書として度牒がもらえるならラッキーくらいの方。

 ファッションとして坊さんになりたいと思っている方(社会人として高い地位を得た方が、退職後も「先生」と尊敬されたいといった感じ)。

 明らかに「拝み屋さん」で、お客さんを信頼させるための「看板」として度牒が欲しい方(俺はすでに色々知っているという感じで、傲慢なタイプ。ただし、お経や真言のクセが酷い・・・)。

 とにかくお坊さんを名乗りたいので、度牒がもらいやすいと噂の真言宗コースに来ている方(禅宗のコースでは得度の条件が厳しかったようです)・・・等。

 もちろん、真摯に真言宗を学び、先に進みたいという方も多かったですが、熱心な檀信徒以下という方が多かった印象です。

 

 前にも書きましたが、得度とは、いったん死んで、新しく生まれ変わることです。今までの俗世界の人間関係を絶って、新たに師僧と親子関係を結ぶことです。

 宗門大学なんかでしたら、大学側が師僧を割り当ててくれたりするようですが、そうでない場合、在家の人間は、師僧を見つける方法など簡単には思いつかず、ついつい手っ取り早い方法に飛びついてしまうのかもしれません。結果、いい縁に恵まれればよいのですが・・・。

 

 師とする阿闍梨の選び方として、浄厳和上の『受法最要』の中に、大日経具縁品を引用して以下のような条件が挙げられています。

1. いつも大菩提心に安住し

2. 出家の菩薩浄戒を守り

3. 聡明で優れた知恵を持ち

4. 慈悲深く

5. 学問、芸術に通じ、

6. 三乗の法門に通達し

7. よく般若波羅蜜を行じ

8. 瑜伽行に習熟し

9.   よく真言の意味を理解し

10. 曼荼羅に通達し

11. 穏やかな人柄で、 我欲を持たず

12. 真言の行において善く決定することを得る

 

このような徳を兼ね備えた師を探しなさいというのです。

超難関ですね。

 

ということで、妥協案として

菩提心を持ち、浄戒を守り、瑜伽をよく行じ、真言の意味をよく理解している人」

でもよいとします。

 

 これでもまだまだハードルが高いですね。戒をしっかりたもっている僧侶なんて、厳格に判断すると、今日では滅多にいないですよね。

 

それでは、ということで最低限

菩提心が堅固である人」

を探しなさい、と言っています。

 

 そして、その菩提心というのは、大乗仏教的には、自分が覚りを求めるということだけではなく、生きとし生けるもの全てを救うという利他の面を含むものです。そういう目的のために必死で努力している人を師としなさいというわけです。

 

 もっとも運よくそのような方を見つけても、師僧になってもらえるかは別の話です。

 なぜならば、『受法最要』には、師僧の選び方のすぐあとに、弟子の選び方があげられていますから・・・。

 

 ある住職の話です。

 よく住職相手にズケズケとものを言う檀家総代さんがいたそうです。仏教のことにはそこそこ詳しいようで、あるときに住職に対して「ワシも坊さんになろうかな。得度させてくれるか。」と言ったそうです。

 それに対して、「ワシの弟子になるんやから、これまでみたいにワシに対して偉そうにものを言えんようになるけど、それでもええか。」といったところ、黙ってしまったそうです。

 

 いずれにせよ、得度は記念でするようなのではないです。資格欄に書くためのものでもないです。たしかに会話のネタくらいにはなるでしょうが。

 安易に得度したい、とかいう人に限って、一番基本となる在家用の日用経典(ウチだったたら青本と呼ばれる『仏前勤行次第』)すら唱えていなかったりします。まずは、ちゃんとした信仰者になるっていうのではダメなんでしょうかね。