炉前読経とか 火葬式とか

 炉前読経というものをご存じでしょうか。

 文字通り、火葬場の炉の前で、僧侶が簡単なお経をあげてお送りするものです。

 業者さんの中には「火葬式」という表現を使っているところもありますが、「火+葬式」ではなく、「火葬+式」と思ったほうがよいでしょう。

 以前は、業者さんのホームページの紹介では「10分から15分くらいのお経」と書いてあるところもありましたが、今は「5分から10分くらい」としているところが多いように思います。

 

 先日、あるご住職が行った炉前読経でクレームが出たと伺いました。

 その方は、お経も上手ですし、人当たりも良い方で、人気こそあれクレームとは無縁な方でしたので不思議に思いました。

 内容としては、「お経が短すぎる。般若心経くらいしかあげていなかった」とのことだったそうです。

 正直、短い時間で、何のお経をあげるかということには頭を悩まされます。

 以前にも書きましたが、真言宗は何かにつけて理趣経をあげます。

 回忌法要などでは、理趣経をフルであげることはせずに、「中抜き」をして唱えることが多々あります。全部で十七段からなる理趣経ですが、初段までで「中抜き」して最後の部分(百字偈以下)を唱える最略の唱え方であっても10分には収まりません。

 短い時間の中で、一番「効果的」なお経は何なのか、それぞれの僧侶が工夫して行っているのが現状ではないでしょうか。その中で、般若心経は模範解答の一つだと思います(自分は違いますけどね)。

 

 中には、炉前読経をウェルカムとしているお坊さんもいるようです。拘束時間が短い割には実入りが良い、ということでしょうか。

 しかし、多くのお坊さんは炉前を得意としていないように思います。

 葬儀社の方が依頼をしてくるときに「住職、炉前ですけど良いですか?」「炉前で申し訳ないのですが・・」という言い方をすることもありますので、炉前を断っている方が多いのかも知れません。

 

 では、何が難しいのかというと。

1. 時間的制約

 少しでも、「本当の」引導作法に近づけようとして努力はしていますが、できることが限られています。

 

2. 場所的制約

 洒水をして、剃刀を当てて・・・といった作法をすることはできません。まず、法具を用いることはできません。

 

3. 不定型であること

 これが、一番厄介かもしれません。

 「不定型」とはどういう意味かというと、火葬場によって、あるいは同じ火葬場でも混雑具合などによって状況が変わるということです。

 

 たとえば、火葬場によっては、炉前に行く前の段階で「お別れルーム」みたいなところを経由するところがあります。

 ここならば、比較的落ち着いて、読経をして、皆さんにも焼香をしてもらい、お別れをしてもらうことができます。もちろん、そのあとで炉に収める時間は決まっていますから延々とお経をあげることはできませんが、比較的落ち着いた感じで行うことができます。

 

 しかし、多くの場合は、前室がなく、そのまま炉前に行きます。

 その場合でも、炉ごとに、或いは少数の炉ごとに部屋が区切られているパターンですと、他の方たちとバッティングすることもないので、比較的落ち着いた雰囲気でお別れをしていただけます。この場合、炉に収めた後で読経ということが多いですので、むしろ、先のパターンよりも時間に余裕があったりします(それでもこのあとに遺族を控室に案内する係の方がスタンバイしていますので、そのプレッシャーに負けないことが必要ですけど)。

 

 一番大変なのは、直接炉前に向かい、その炉が複数、横並びで、仕切りもないというパターンです。田舎ならそれでもよいのですが、都会だと大変です。

 火葬場の方もうまく、隣にならないようなローテーションをしているのかも知れませんが、混雑しているときは結局、隣同志で、お経が入り乱れることがあります。

 葬式を終えて、最後にもう一度炉前でお別れ、というならば、これでも仕方ないのでしょうが、炉前のみの場合、この状況の中で、気持ちの整理をしてお別れをしてもらうのは酷かなぁと思うことがあります。

 

 先にクレームが出たというのも、このパターンだったのでしょう。すぐ後ろに、次の方たちが来ていたので、あまり待たせるわけにはいかないと優しい配慮をしてしまったのかもしれません(炉自体は時間で予約を入れているので、バッティングすることはないのですが、入り口や通路などは早い者勝ちになってしまい、その場で待たされるということがあります)。

 

 他にも、地域や火葬場で変則ルールがあったりします。

 たとえば、うちの寺の近くのとある市の火葬場では、炉前で焼香の用意がありません。棺の上に喪主さんが直接火をつけた線香を置いてから炉に収めます。そのあとで炉前読経となるわけです。

 あるとき、その市の業者さんから炉前読経の依頼を受けたのですが、特別にその業者の式場で出棺経をあげてくださいと依頼されました。炉前では焼香ができないことを分かったうえで、少しでも落ち着いてお別れをできる機会を作りたいという地元業者さんの心遣いだったのだと思います。

 

 現在のコロナ禍もあり、仕方なく炉前を選ぶ方もいらっしゃると思います。また、参列者が高齢で、長丁場の式には耐えられないという理由で炉前にされた方も知っています(その方とはその後も長いお付き合いをしており、先年は七回忌をいたしました)。

 

 自分たちも限られた状況の中でベストを模索しています。

 自分が「炉前デビュー」当時に師僧から言われたのは「十分なことができなくて、もやもやするのだったら、自坊に戻ってから普通の葬儀のようにしっかり拝めばいい」ということでした。自分も、なるべく事前に、用意した戒名紙を前にして修法してから臨むようにしています。

 

 ただ、これだけでは遺族の気持ちに対してはケアできないこともあります。

 

 先日、火葬だけをしたという方が、49日を寺で行いたいと仰ってきました。また、それに合わせて、後付けですが、戒名もつけてほしいということでしたので、お引き受けいたしました。

 結果、丁寧に戒を授けた上で、戒名を授与して、しっかりとお経をあげて、この後続く、故人様の旅の応援をすることができましたし、ご遺族も安心されたように思います。

 

 炉前読経で、十分に心の整理が出来なかったと感じている遺族の方こそ、そのあとの法事が必要な気がいたします。

 

 

 

 

 

 

見えない力

 先日、ある本で、上座部仏教(主に東南アジアで盛んな仏教)の長老さんがこのようなことを書いておられました。

 「神仏に加護を願う文化は世界中に有りますが、御守をぶら下げる文化は日本独特のものでしょう。(中略)以前に、あるお坊さんから、お守りとして頂いた数珠も、そんなものに心の平安を願うのは格好悪いので捨ててしまいました。」

 

 日本人の中でも、最近は「無宗教」を名乗る方が増えていますが、何かのアンケートで見たところ、お守りをゴミ箱に捨てることが出来るか?」という質問に対して、「はい」との回答は殆どありませんでした。

 それは信仰心によるのではなく、むしろ正しい信仰を持ってないゆえの迷信がもたらす「怯え」からの行動に過ぎないとの解釈も成り立つでしょう。

 ちなみに、よく立小便される場所に、鳥居のマークを描いておくと一定の抑止効果があるそうです。

 

 ところで、最近では科学と宗教は接近しているように言われています。「俺は理系で合理主義者だから、宗教なんてものは信じない」、なんてことをいうのは格好よくなくなってきているように思います。実際、自分が伝法灌頂を受けたときには、お医者さんや脳科学者の方もおられたぐらいです。

 

 特定の宗教に対する信仰とはいえないにしても、何か人知の及ばない力を肯定している科学者の方は多いです。そのような力を「サムシング グレート」等と呼ばれているのを耳にした方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

 先ほどの話であれば、御守なんて言うものは、物質としてはただの布の袋や紙の札かもしれません。信仰の異なる人ならば、そこにこめられているとされる神仏の力を否定することができるかもしれません。しかし、そこに込められた思いと、その思いのもたらす力までを否定することはできないと思います。

 病気の方の為に、家族や親友がわざわざ遠くのお寺までお参りして手に入れてくれた病気平癒の御守、受験生の孫の為におじいちゃん、おばあちゃんが天神様にお参りして、送ってくれた合格祈願のお札‥等。もちろん自分たち宗教者も祈願者の方の為に、祈りをこめて魂入れしています。それらの思いの力を全否定できるでしょうか。

 

 最近、「自己責任」という言葉が、安い意味で濫用されているように思います。でも、自分で責任をとることができる範囲なんてたかだか知れているのではないでしょうか。

 自分の人生だから、どう生きようと自己責任だからかまわない、なんていう主張は、はなはだおごった、幼稚な考えの様に思います。

 

 この世に生まれてきたこと、いま生きていることは当たり前のことではありません。生まれることが出来なかったいのち、生きたくてもかなわずに消え行くいのちのことを考えれば、簡単に想像できることです。

 

 なにか特別な力によって生かされていることに感謝して、その幸運を無駄にすることなく、有意義に生きたいものです。

 

※ 寺報「西山寺通信」令和三年二月号の内容を修正したものです。

坊さん いろいろ

 少し前の話ですが、ある大きなお寺が葬儀をする資格のない見習い僧侶を出仕させたとして問題となりました。

 檀家さんの葬儀で、作法がいつもと違うことに気づいた方が、問い詰めたところ本人が認めたそうです。

 よく気付いたものだと思いました。というのも、以前にも少し触れたと思います(「高野山真言宗葬儀式次第」)が、高野山真言宗の葬儀のやり方に決まった形はありません。

 ですから、問題なのは作法がいつもと違っていたことではなく、あくまでも無資格であった点なのです。

 そこで、葬儀の資格って何なのかをお話しするにあたり、どうやってお坊さんになっていくのかをごく簡単にご説明します。

 

① 得度

      まずは師僧となってくれる方を見つけます。

  お寺の子供ならば、親がなってくれる流れでしょうが、在家の者は自分で探さなくてはなりません。

  そして師僧の下で得度。剃髪をし、最も基本となる戒を授かり、法名と袈裟を授かり、僧侶としての第一歩を踏み出します。

  この証明書のようなものとして「度諜(どちょう)」が発行され、僧侶としての戸籍である「僧籍簿」に登録されます。  

 

② 受戒

   僧侶として守るべき戒を授かります。

   戒にも、種類があります。在家の方が守るべき戒(これは高野山の大師教会でも予約なしで受けることが出来ます)よりも、質量ともに増量です。

   高野山真言宗の場合、過去現在未来の仏さまたちに五体投地して懺悔したり、もちろん様々な戒を守るることを誓ったりと、三日間にわたり行われてます。

 

③ 四度加行

   僧侶たるもの一生修行なんでしょうが、真っ先に通過しなくてはならない基本的な修行がこれです。

   名前の通り、四つのパートから成り立っています。

   特定の仏様を丁重にお招きして供養するという基本的な作法にはじまって、最後に護摩行でフィナーレです。

   高野山真言宗の場合、道場によって前後しますが、前行(イントロとして護身法や理趣経を扱うための行)もあわせて100日くらいです。    

 

④ 伝法灌頂

   加行を終えると、阿闍梨となるための伝法灌頂を受けます。

   大日如来、金剛薩埵・・・から綿々と連なる法流を授かります。

   これが終わると「已灌頂者」として、色々な伝授を受けることが出来ます。

   あくまでも、密教行者としてさらに進んだことを学ぶ資格を得たに過ぎないと言っていいかもしれません。

 

⑤ 教師検定・教師資格取得

   専修学院や真別所といった集団加行道場を出た人ならば、自動的に「教師」になります。そうでない人は別途試験を受けて「教師」資格をとらなくてはなりません。

   「教師」とは僧正や僧都、律師といった僧階に任じられることでもありますが、それ以上に重要なのは、教師でないと住職になれないということでしょうか。

   ちなみに、高野山内の住職になるためには、これだけでは足りません。 

 

 では、どの段階ならば、葬儀をしても良いのでしょうか。

 少なくとも、④を終えて、引導作法という葬儀の伝授を受けていることが必要だと思います。

 

 中には、俗名の葬儀の場合は、戒を授けて、ちゃんとした僧侶として送るわけではないのだから、伝法灌頂を終わっていない僧侶がやっても構わないという方もいるでしょう。

 

 逆に、厳しい方では⑤の段階に加えて、住職であることを求める方もいるようです。葬儀の導師が「弟子」にして、引導を渡す以上、弟子を持つことが許される「住職」であることが必要だという考えなのかもしれません。 

 

 冒頭に述べたような騒ぎがあってから、僧侶派遣会社でも教師資格の証明書を求めるところもふえてきたようです。

 そんなきっちりした会社の一つに、よく出入りしていたお寺さんがあります。

 そこは、真言宗なんですが、特定の本山に属さない「単立」寺院です。

 単立寺院でも色々あるようで、大きな寺院で、さきに挙げたような僧侶育成システムを自前で持っているところもあります。そうでない寺院ならば、どこかの宗派のシステムを利用するということもあります。

 

 最近、分かったのですが、そこの寺の住職も副住職も、加行もなにもしていなかったみたいなんです………。

 極端な場合、単立寺院の場合、「住職です」と名乗ってしまえば住職になれてしまうんですね。

 でも、立派な伽藍のあるお寺だということで、結構お仕事があるんですね。

 ちゃんと、加行も終わり、志もあるのに「マンション坊主」などと侮蔑的に言われている方たちが、なかなか法務が無くて困窮して、泣く泣く僧侶以外の仕事で糊口をしのいでいたりするのが、何だか割り切れない気持ちです。

 

 もっとも、自分だって、形式的には葬儀の資格はあっても僧侶としてはまだまだなわけです。

 葬儀に赴いた際に、「ハズレ」の坊さんではなく「アタリ」の坊さんと思われるように、精進しなくてはならないと思います。

    

 

 

不綺語

 今回も十善戒のお話です。

 前回の不妄語に続いて、言葉に関する戒です。

 「不綺語」

 「綺」とは「綺麗」の「綺」ですから、悪い意味が無いように感じるかもしれませんが、そうではありません。

 意味としては、中身のない、無意味な言葉ということになります。

 ついでに申し上げると、反対語は「道義語」です。

 

 中身や意味がなくったって、会話の潤滑油になるならいいではないか、と思うかもしれません。

 たしかに、その通りなのですが、逆にそのことが、不綺語戒を守ることを難しくしているとも言えます。

 たとえば、前回の不妄語戒なら「嘘をつかない」ですし、予習になってしまいますが、来月以降の口に関する戒律である「不悪口戒」「不両舌戒」なんかは、文字通りの意味ですから、何がタブーなのかは明白です。

 

 一方、不綺語戒の場合、タブーかどうか不明瞭な場合があります。

 

 落ち込んでいる人を前にして、励ますつもりで、他愛のない冗談を言う。

これは、意味のない言葉ではないですよね。

 でも、葬儀の場で、同じように冗談をいうのは、不綺語戒に反する以前に、非常識とされるでしょうね。もっとも、それすら絶対ではないです。

 

 先日、ある方の家族葬に行ってまいりました。

 花入れが終わり、出棺までのお別れの時間になりました。

 すると、長女の方が、亡くなられたお父様との思い出を楽しそうに話してくださいました。すると他の姉妹の方や、親族の方も「そうだったよね♪」とか、「えっ、そんなことがあったの?」とかいう話になり、めいめいに故人様との思い出を、時には涙を浮かべて、時には笑ってお話しされていました。

 コロナの影響もあり、大規模な参列者を呼ぶ葬儀が減り、家族葬が増えています。でも、今回は、親しい家族だけだったからこそ、みんなが素の気持ちで、故人様との思い出を語り合えたのかなと思いました。

 葬儀の際の、こういう笑い声は大歓迎です。

 一方で、親しくもない会社関係の人などが多く集まる葬儀で、名刺交換の場や、同窓会の場と化した中で聞こえてくる笑い声は、正直勘弁してほしいです。

 

 少し、話はそれてしまいましたが、結局のところ、「不綺語戒」に反しているかどうかは、TPO次第なのでしょう。

 そして、それを判断する基準は、「慈悲」以外にないのでしょう。

 

 言葉を整えると心が整う、心が整うと言葉が整う。鶏が先か卵が先か、みたいな話ですが、どちらも正しいように思います。

 無駄に言葉を垂れながすのではなく、慈悲の心のフィルターを通して、最も意味のある言葉を選んでいきたいものです。

 

※ 令和三年二月の薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

名は体を表す

 知り合いの僧侶の方が、初めて戒名をつけることになりました。

 戒名をつける際には、ご喪家から、お人柄やご趣味などをうかがい、それらを象徴、反映する文字を仏典や祖師の言葉などから選び、作成します。

 戒名作成には、色々と技術的な決まりがあるのですが(よく売られている自分で戒名をつけるハウツー本では全く触れられていないことが多いですね。そもそも戒師でもない人が授けるものを「戒名」とはいえないでしょうけど)、何より、意味的に最も故人様にふさわしい戒名を授けようと、思案するわけです。

 その方も、数日かけて作られたそうで、とても素敵な戒名でした。

 

 昔、職場の先輩は「名前なんてただの記号」とおっしゃってました。

 結婚する際には、どちらの名字にするかじゃんけんで決めようとして、双方の親から全力で止められたそうです。

 

 涅槃図の中には色々な登場人物がいらっしゃいます。

 お釈迦さまの入滅の場面を描いたものですが、仏様やお釈迦さまのお弟子さんのほか、動物まで登場していたりします。

 中には、パトロンである長者さんたちも描かれています。

 そのおひとりに「月蓋(げつがい・がつがい)長者」がいらっしゃいます。

 

  お釈迦さまがインドのある国を訪れました。その国の長者月蓋は大富豪でしたが強欲で性悪な人でした。お釈迦さまはなんとか月蓋長者の心が正しくなるよう屋敷をおとずれますが、一向に聞く耳を持ちません。

 しばらくすると国中に恐ろしい熱病が流行し、人々が亡くなっていきます。ついに長者の最愛の一人娘である如是姫もこの熱病に罹ってしまいます。月蓋はインド第一の医師を招きますが「この病は薬では治りません、お釈迦さまならば・・・」と言い残して帰ってしまいます。 月蓋長者は、いままでの自分の行いを深く反省し、お釈迦さまに懺悔し、国中の人々の病気を救って下さいとお願いしました。お釈迦さまは月蓋の心を知り、「西方極楽にいらっしゃる阿弥陀如来さまに向かって祈りなさい」と教えます。

 月蓋長者が屋敷に帰って一心に祈りますと、極楽から阿弥陀如来が来臨し、放たれた光によって全ての人の病気が治りました。

 月蓋の喜びは限り無く、この阿弥陀さまのお姿をこの世に残して頂きたいと願います。そこで竜宮城から取り寄せた閻浮檀金で仏像を作らせました。

 この仏像は、仏教が伝来するとともに我が国にもたらされ、これこそが善光寺のご本尊だというお話です。

 

 インド人なのになぜ名前が「月蓋長者」「如是姫」?と思ったかもしれません。

 こういうことではないでしょうか。

 私たちの心の中には、必ず仏性があるとされています。菩提心ともいいます。

 しかし、煩悩に覆われて、なかなか表に出てこないのが実情ではないでしょうか。

 見えてないからと言って、仏性が無いわけではない。

 たとえるならば、雲に隠れた満月のようなものです。

 自分たちも、金剛頂経による五相成身観という観法で、真っ先に心の雲を取り払い、満月を抱くというものがあります。

 

 いくら性悪な長者であっても、心の奥深くには満月のように美しい仏様がかくれているわけです。月が存在していないわけではなく、貪欲さやエゴといった煩悩で蓋をされていただけなのです。

 みんなを助けたいという「菩提心」がおこった瞬間に、その蓋が取り除かれたということです。

 本来、人というのは仏性をそなえた「是くの如き」存在であることを、最愛の娘「如是姫」の病を機縁として気づかされたのです。

 

 まさに名前がその方を象徴していたわけです。

 

 自分たち僧侶は、故人様が成仏できるように必死で祈ります。

そして、その一助となるように精一杯、戒名を考えて授けているわけです。

 

 そして、私たちの名前(僧侶でしたら法名)も、親や師僧の思いをこめてつけていただいたものです。

 その思いに感謝して、名前負けしないように精進したいものです。

 

 

偽薬ではなく本物の薬を調合するために 代受苦の覚悟

 先日、いつもお寺を手伝ってくださっている僧侶の方がボソッとこんなことを仰いました。

 「行者というものは『代受苦』者のように、自分に厳しい方ばかりだと思っていたのですが、そうではないんですね。」

 

 ドキッとしました。

 自分は咄嗟に

 「中身が伴わない行者が、それなりの格好をして、それなりの所作をして拝めば、何かしらの験がでるかもしれません。ただ、それは本当の験ではなく、いわば「プラシーボ効果」に過ぎないかもしれませんね。」

と申し上げましたが、最適解ではなかったかもしれません。

 

 以前に高野山塔頭で役僧をしていた時に、先輩から過去の「猛者たち」の話を色々聞かされました。

 その中のお一人は、普段はおとなしいのですが、夕方になると酒をあおり、木刀を振り回して暴れていたそうです。

 たしか、東大卒だったか高学歴の方だったそうです。なぜ、そんな酒乱のような人を寺で雇ったのか不思議に思い、尋ねたところ、先輩が仰るには

 「あの人、真面目やったんや。仏教や坊さんに高い理想や憧れをもって、山にやって来たんやけど、全然違うと分かった途端に壊れてしまったんやと思う。」

とのことでした。

 

 自分自身は、小学生の時に、普段は神だの、仏だの、といっている宗教者が、決して人格者ではないということを身をもって教えていただく体験をしました。

 一方で、当時ちょうど来日されたマザーテレサのような本当の素晴らしい宗教者がいらっしゃることも分かっていましたし、自分の中の理想の宗教者は映画『ポセイドンアドベンチャー』の中で、神に怒りの言葉をぶつけながらも、躊躇なく自分の命と引き換えに他の人々の命を救う、ジーン・ハックマン演じるスコット牧師だったわけです。

そういう意味で、自分は割り切りができる不真面目な人間なのかも知れません。

 

 先述の、拙寺にお手伝いに来てくださる方は自分と異なり、すごく真面目な方ですので、失望して、せっかくの仏縁を損なってしまわないように、自分も襟を正さなくてはならないと思いました。

 

 ところで、『代受苦』をネットで検索すると、ある有名な僧侶の方が、震災被害者に当てはめた用例が多く上がってきます。

 しかし、本来的には、仏菩薩が大悲の心より、衆生に代わり苦難を受けることを指します。仏様一般に当てはまることなのでしょうが、お地蔵さんが代表的な存在のように思います。実際「身代わり地蔵」の作例は多いですし、中には縄で縛られてがんばってくださっているお地蔵さんなんかもおられますよね。

 

 私たち人間は、菩薩行をするために生まれてきています。すなわち利他行です。その最たるものが代受苦です。でも、実際には難しいわけです。

 だからこそ、行者は一般の衆生の分も引き受けて、代受苦として身を削りながら修行をするわけです。

   山中の修行の場には、「捨身が岳」などという地名もあります。文字通り、行者が衆生のために、身を犠牲にした場所ということです。

 実際には、事故で足を滑らせて亡くなった行者もいたでしょうが、そういう方たちに対しても、「捨身」という表現を使ったようです。それは、普段から、衆生を思い、苦行を重ねている姿が敬意に値するものだったからでしょう。

 

 出羽三山では、「即身仏」が有名です。エジプトのミイラとは異なり、生きているうちから少しずつ食事を絶っていくことでミイラとなった僧たちです。

 即身仏になられた時期は、多くの場合、災害や飢饉の時期と重なっているそうです。やはり、この方たちも、自分の覚りというよりも、自分の命と引き換えに何とかして衆生を救いたいという一心からだったのだと考えられます。

 

 科学合理主義の現代にあっては、祈祷やまじないの類は、怪しげなものとして見られがちです。

 一方で、昔であっても、祈祷やまじないが100%受け入れられていたわけではありません。お上による禁止がなされたり、庶民の間から嘲笑の的になっていたこともあるようです。

 但し、それは祈祷やまじないそのものの否定ではなく、裏付けとなる修行や苦行もせずに行われる「なんちゃって」祈祷を否定したわけです。

 

 知り合いの僧侶が、今までやったことのない病気平癒の祈願をするにあたり、先輩の僧侶から言われたそうです。

 「普段、行をしてない行者が祈願をしたって、験は出ぇへんで。」

 

 行もせずに怠けてばかりで、人間的に信用されていない僧侶が祈願をしたとしたら、偽薬効果すら出ないかもしれません。そもそも、祈願してもらおうという方がいないかもしれませんが。

 

 第一類や第二類医薬品 のような効果が出ないにしても、サプリメント以上の効果が出るくらいには、自分を律していきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

宗旨替えの前に

 うちは檀家寺ですが、決して檀家の数が多いとはいえません。したがって、依頼があれば、少々遠隔地でも法務を引き受けることがあります。

 

 最近も、「高野山真言宗」をご希望というご葬家さんということで、すこし離れたところで葬儀をさせていただきました。そこは、地域的に、真言宗でも智山派さんや豊山派さんといった新義真言宗の多いところでしたので、自分に白羽の矢が立ったようです。

 

 一方で、かなり前のことですが、ある葬儀社さんの依頼で引き受けた葬儀の話です。

 通夜の後、帰宅したところに葬儀社さんから電話がありました。何か、しでかしたかと不安に思い電話に出たところ、

 「申し訳ありません。あの後、親戚が集まって話をされているうちに、真言宗ではなく、(浄土)真宗だということが分かりました。」

 次の日は、ビミョーな空気の中で告別式を行いました。

 ただ、葬儀自体には満足していただけたようです。分家筋で新宅だったこともあり、49日に訪れた際には、真新しい真言宗の仏壇が用意されてあり、開眼させていただきました。

 

 自分の家の宗派を、○○宗だけではなく▢▢派まで理解されている方もいれば、葬儀のような場面になるまでご存じない方がいらっしゃるのも事実です。

 

 よく、「仏教にはいろんな宗派があるけれども、目指しているところは一緒。飛行機で行くのか電車で行くのか車で行くのかの違いだよ。」と仰る方がおられます。

 たしかに、おおむねはその通りなのだと思います。

 しかし、それぞれの宗祖の方たちが、命懸けでそれぞれの宗派を立ち上げたことを忘れてはいけないと思います。

 より多くの人を救うためには、旧来のやり方では駄目だということで、場合によっては弾圧をうけ、命の危険にさらされても、布教を続けてきたわけです。

 「教相判釈」といって、いかに自分の宗派が優れているかを主張するだけではなく、バージョンアップもしてきたわけです。

 さっきの乗り物の話でいうと、いかに安全に快適に多くの人を覚りの地に運ぶことが出来るかということを考えつづけて、いまの色々な宗派が存在しているわけです。

 

 自分自身は、先祖代々の宗旨を変えることは構わないと思っています。

 むしろ、仏教や様々な宗派のことを学んだ人こそ、自分はこの考えに賛同できない、納得できないという部分が出てくる可能性が大きいからです。そして、納得できない宗旨を信仰をするのは苦痛でしょう。

 先祖代々の宗旨だからと割り切って、深く考えずに信仰するのも間違いではないでしょうが、本当の信仰が生まれるのかどうか。なんかもったいないような気がします。

 

 以前にも書いたと思いますが、自分が真言宗の僧侶を目指したときに、歩き遍路で出会ったミャンマーの僧侶の方から「まずは色々な宗派を勉強しなさい。真言宗は取扱いに注意しないといけない宗派だから、近視眼的な視野ではいけないよ。」とアドバイスをいただきました。

 結果、十分ではないにせよ、他の宗派を学ぶことで真言宗の「ウリ」みたいなものがはっきりして、納得した上で真言僧になったことはよかったと思っています。

 

 まずは、先祖代々の宗派について学んではいかがでしょうか。

 ご先祖様たちが、どんな思いで、何を願って仏様と対峙していたかを知ろうとするだけでも大きな供養になることでしょう。

 菩提寺さんがある方なら、どんどん聞いてください。本来、坊さんの一番の仕事は葬儀をすることではありません。むしろ、そのような話をしたくて仕方ない人が坊さんをやっているはずです。

 

 どうしても納得できない、満足できないというのであれば、宗旨替えもやむを得ないでしょう。自分が心豊かに生きる上で、よりよい教えが見つかったというなら、むしろそれは本当に幸運なことでしょう。

 

 最近は堂々と「無宗教」を称する方も多いです。憲法上の信教の自由には、信仰をしない自由も含まれているように、もちろんそれは構わないと思います。

 しかし、今以上に、自分の努力ではどうにもすることができず、宗教のような見えない何かに心からすがるよりほかになかった時代の先人たちの心を理解して、尊重する努力は忘れてほしくないと思います。