名は体を表す

 知り合いの僧侶の方が、初めて戒名をつけることになりました。

 戒名をつける際には、ご喪家から、お人柄やご趣味などをうかがい、それらを象徴、反映する文字を仏典や祖師の言葉などから選び、作成します。

 戒名作成には、色々と技術的な決まりがあるのですが(よく売られている自分で戒名をつけるハウツー本では全く触れられていないことが多いですね。そもそも戒師でもない人が授けるものを「戒名」とはいえないでしょうけど)、何より、意味的に最も故人様にふさわしい戒名を授けようと、思案するわけです。

 その方も、数日かけて作られたそうで、とても素敵な戒名でした。

 

 昔、職場の先輩は「名前なんてただの記号」とおっしゃってました。

 結婚する際には、どちらの名字にするかじゃんけんで決めようとして、双方の親から全力で止められたそうです。

 

 涅槃図の中には色々な登場人物がいらっしゃいます。

 お釈迦さまの入滅の場面を描いたものですが、仏様やお釈迦さまのお弟子さんのほか、動物まで登場していたりします。

 中には、パトロンである長者さんたちも描かれています。

 そのおひとりに「月蓋(げつがい・がつがい)長者」がいらっしゃいます。

 

  お釈迦さまがインドのある国を訪れました。その国の長者月蓋は大富豪でしたが強欲で性悪な人でした。お釈迦さまはなんとか月蓋長者の心が正しくなるよう屋敷をおとずれますが、一向に聞く耳を持ちません。

 しばらくすると国中に恐ろしい熱病が流行し、人々が亡くなっていきます。ついに長者の最愛の一人娘である如是姫もこの熱病に罹ってしまいます。月蓋はインド第一の医師を招きますが「この病は薬では治りません、お釈迦さまならば・・・」と言い残して帰ってしまいます。 月蓋長者は、いままでの自分の行いを深く反省し、お釈迦さまに懺悔し、国中の人々の病気を救って下さいとお願いしました。お釈迦さまは月蓋の心を知り、「西方極楽にいらっしゃる阿弥陀如来さまに向かって祈りなさい」と教えます。

 月蓋長者が屋敷に帰って一心に祈りますと、極楽から阿弥陀如来が来臨し、放たれた光によって全ての人の病気が治りました。

 月蓋の喜びは限り無く、この阿弥陀さまのお姿をこの世に残して頂きたいと願います。そこで竜宮城から取り寄せた閻浮檀金で仏像を作らせました。

 この仏像は、仏教が伝来するとともに我が国にもたらされ、これこそが善光寺のご本尊だというお話です。

 

 インド人なのになぜ名前が「月蓋長者」「如是姫」?と思ったかもしれません。

 こういうことではないでしょうか。

 私たちの心の中には、必ず仏性があるとされています。菩提心ともいいます。

 しかし、煩悩に覆われて、なかなか表に出てこないのが実情ではないでしょうか。

 見えてないからと言って、仏性が無いわけではない。

 たとえるならば、雲に隠れた満月のようなものです。

 自分たちも、金剛頂経による五相成身観という観法で、真っ先に心の雲を取り払い、満月を抱くというものがあります。

 

 いくら性悪な長者であっても、心の奥深くには満月のように美しい仏様がかくれているわけです。月が存在していないわけではなく、貪欲さやエゴといった煩悩で蓋をされていただけなのです。

 みんなを助けたいという「菩提心」がおこった瞬間に、その蓋が取り除かれたということです。

 本来、人というのは仏性をそなえた「是くの如き」存在であることを、最愛の娘「如是姫」の病を機縁として気づかされたのです。

 

 まさに名前がその方を象徴していたわけです。

 

 自分たち僧侶は、故人様が成仏できるように必死で祈ります。

そして、その一助となるように精一杯、戒名を考えて授けているわけです。

 

 そして、私たちの名前(僧侶でしたら法名)も、親や師僧の思いをこめてつけていただいたものです。

 その思いに感謝して、名前負けしないように精進したいものです。