慈悲の鎧

 昨年はコロナ一色といった感じで終わりました。今年もしばらくは我慢の日々が続きそうです。

 

 昨年から、香川の善通寺さんで開かれている「疫病の祈り伝授会」を受けに行ってます。文字通り、昨今の状況を鑑みて、身体健全や疫病退散に特化した様々な修法を学ぶというものです。もちろん、うちのご本尊であるお薬師様の行法もあります。 

 

 その中で、気を付けるべきことといわれたことがあります。

 「疫病退散」とかいうけれども、疫病をやっつけるのではないということ。

 疫病あるいは疫病をもたらすもの(神)もまた「一切衆生」であること。

 一切衆生である以上、供養して救ってあげるべき存在であること。

ということでした。

 

 たしかに、自分たちは行法の中で、仏様だけではなく神様たちも供養します(「神分」という部分です)。そのなかには「当年行疫流行神」(流行り病をもたらすとされる神様)というものも挙げられいて、一緒に供養しています。

 

 降三世明王シヴァ神と妃とを踏みつけている仏像をご存じの方も多いと思います。少しかわいそうだなと思うかもしれませんが、踏まれた後に「ロンダリング」されて仏法の守護者になる訳ですので、これもまた「やっつけている」わけではなく、スパルタ式に「助けている」わけです。

 

 このような考え方は専売特許ではなく、神道でも存在しています。

 いわゆる「荒魂」と「和魂」の関係であったり、「御霊信仰」なんかがそうではないでしょうか。

 大きな恨みを抱いて怨霊になった方を、ちゃんと供養することで、その大きな力を人々を救う方向に向けるわけです。せっかくの大きな力をベクトルを変えて良い方向に活かしてしまおうといった感じです。

 怨みを抱いて、宮中に雷を落としまくった菅原道真公が、学問の神様になられているのが有名な例ですね。

 

 別の話では、「牛頭天王(ごずてんのう)」なんかもあてはまるのではないでしょうか。玄関に「蘇民将来云々」と書いた札が貼ってあるのを見たことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。また、祇園祭の祭神としても知られています。

 簡単にお話ししておきます。

 旅の途中で、ある村に立ち寄った牛頭天王は、長者の家に宿を求めますが、手ひどく追い返されます。仕方なく、貧しい、長者の兄である蘇民将来を訪ねると、貧しいにもかかわらず精一杯の手厚いもてなしをしてくれます。感謝した牛頭天王は、何でも願いの叶う「牛玉」をプレゼントします。結果、蘇民将来は金持ちになった、というどこかで何度も聞いたような話が前半です。

 少し異なるのは、この後、復讐ということで長者の一族郎党を皆殺しにしてしまうという残酷さでしょうか。さすがは「疫病神」です。例外的に長者の妻は助かるのですが、彼女は蘇民将来の娘であり、事前に蘇民将来の身内であることを示す護符を持たされていたからです。以来、蘇民将来の子孫であることを示す護符を玄関に貼ることで災厄よけをするようになったというわけです。

 

 仏教と神道とで構成は似ているのですが、何かが少し異なるように思います。

 甚だ主観ですが、神道が「畏れ」を原動力としているのに対して、仏教では「慈悲」を原動力にしているのではないでしょうか。

 

 密教僧は、修法はもちろん、常のお勤めでも、真っ先に「護身法」というものを結びます。詳しくはお話しできませんが、文字から大体見当がつくと思います。その中で「被甲護身」という、身に甲冑をまとう印と真言があります。一般的に、甲冑は「かっちゅう」と読みます。しかし、自分の流(中院流)や今回伝授を受けてきた安祥寺流などでは「こうちゅう」と読み習わされています。

 その理由の一つは、戦において命を奪い合う「俗な」道具である「かっちゅう」と区別するためとも言われています。

 すなわち、行者が身にまとうのは「慈悲の鎧」であって、敵を武器で倒すのではなく、慈悲で浄化するというわけです。そして、相手をも慈悲を具える存在に変えてしまうというのです。

 

 自分は、右の頬を叩かれて左の頬を差し出すような性分ではありません。往復ビンタで仕返し、できれば叩かれる前にカウンターで倒してしまいたいくらいの性分なのですが、どうにか、仏教の「究極奥義」である慈悲の使い手になりたいものです。

 

 最初に申し上げました通り、しばらくは閉塞的で鬱々とした時世がつづくことでしょう。そんなときだからこそ、慈悲の心で互いを思いやり、相互供養していくことができればよいと思います。

 

※ 令和三年元旦の星まつりでの法話に加筆修正したものです。

 

 

 

 

不妄語

 十善戒の続きです。

 前回までは、不殺生、不偸盗、不邪淫という身すなわち行動面での戒律でした。

 今回からは言葉に関する戒律が四つ続きます。

 まず最初にお話しするのが、不妄語戒です。

 

 不妄語戒とは簡単に言うと、噓をつくなということです。

 中には、「嘘も方便」なんだから、全ての嘘を否定するのはやりすぎじゃないかと思う方もいらっしゃるでしょう。リップサービス的な嘘はむしろ人間関係の潤滑油になっていると主張する方もいらっしゃるかもしれません。

 

 ある上座部のお坊さんが、そのような方の質問に答える形で、不妄語戒に反する嘘の要件をあげておられました。犯罪における構成要件のようなものですね。それはつぎのようなものです。

① 相手をだまそうとする意思があること

② 事実に反することを知っていたこと

③ 相手がだまされたこと

 これなら、社交辞令的に「いつ見てもお美しいですね」とか「その服、お似合いですね」くらいは許される余地があるかもしれませんね。

 

 少し気になるのは②の要件です。

 一般人が少し呟いただけでも、あっという間に情報が拡散する昨今においては「事実に反することを知っている」だけでは足りないのではないでしょうか。

 

 自分が小学生のときのことです。

 自分は地元の小学校ではなく、少し離れた小学校に通っていました。

 すると近所では、「あの子は頭が悪いので、近くの小学校では恥ずかしいから、わざわざ遠くの学校に通わせている」という噂が流れていたそうです。

 ある日、下校途中で井戸端会議中のおばさんに「学校では何の科目が好き?」と聞かれたので、元気いっぱいに「体育!」と答えところ、「ああ、やっぱりね」といった感じの哀れみに満ちた目で見られてしまいました。

 母親にも「なんで国語とか算数って言わなかったの」と怒られましたが、当時の自分は「だって、得意な科目は?って聞かれなかったんだもん。」とのたまったそうです(本人は覚えていません)。

 

 これくらいのデマなら笑い話ですが、洒落にならないこともあります。

 今回のコロナ禍でも納豆が効くとか、37度のお湯が効くとかいう話が、広まっていました。自分の知り合いにも、ご親切に「お湯が効くよ」というメールが回ってきたそうです。37度のお湯が効くなら、そもそも体温でウィルスは死滅するでしょうに。アメリカでは、相変わらず漂白剤を飲めば治ると信じている人がいるとも聞きます。

 

 昔と異なり、情報を簡単に大量に手に入れることが出来るようになった一方で、何が正しくて有用なのかを取捨選択する手間と忍耐が必要になったように思います。かつては全幅の信頼を置いても良かったであろう新聞のような紙媒体であっても確実ではありませんから。

 

 先日、戒律講習会に出たときに、主催者から配布されたある資料について、伝授阿闍梨さんが注文をつけておられました。

 その資料というのは、昔、ある方が作ったものを基にしたものなのですが、絶版になっていることもあり、主催者が分かりやすく解説をつけて製本してくださったものでした。

 それについて、先生は一次資料が何であったのかを書いていないことに苦言を呈しておられたのです。

 知的財産権がどうのこうのということではありません。このようなことがあると、後の人が大元の根拠を遡ることが出来なくなることを問題とされたわけです。

 

 自分たちの行や修法というものは、オリジナルでやっているわけではありません。根拠とされる経典などの「儀軌」にもとづいています。そこに書かれていない細かな部分が口伝となってしまうこともあり、大いなる「伝言ゲーム」となり、いろんな流に分かれてしまってますが、そこには、誰から誰にどのように伝わったということが裏付けとして存在しています。

 

 話はそれてしまいましたが、真実と確信できないようなことを、自分で少しも確かめもせずに伝えるのは「不妄語戒」に反するように思います。

 

 先に述べましたが、言葉に関する戒律は四つもあります。行動に関するものよりも多いわけです。

 人間に与えられた特別なツールである言葉を、お釈迦さまも「口に生えた斧」とたとえています。使い方を誤ると、他人も自分も傷つけてしまう道具というわけです。

 

 不妄語戒とは、自分の言葉に責任を持つ、というくらいに広くとらえるべきではないでしょうか。

 

※ 令和三年一月の薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

 

 

負の言葉を避ける

 よく知られた実験です。

 ある人に、高温に熱した焼け火箸(アイロンとかでもいいです)を見せます。

 その後、目隠しをします。

 そして、火箸を当てるぞと脅かしながら、ただのボールペンを腕にあてます。

 すると、やけどの症状がでるというものです。

 

 どうやらこれは一種のプラシーボ効果だそうです。

 たとえば、車酔いする人に、ただのビタミン剤を酔い止めの薬と言って飲ませたら、全然酔わなかった、というのと同じ原理ということです。

 

 脳や心が、いかに身体をコントロールしているかということがよく分かります。

 

 中世以前の話には、怨霊や怨霊の祟りによる死、政敵などによる呪殺などというものが多々見受けられます。

 これらも、ただのフィクションというわけではなく、罪の意識やうしろめたさ、恐怖によるストレスといった心的要因に基づく本当の話なのかもしれません。

 そういう意味では、昔の日本人の方が、たとえ悪人でもナイーブで可愛げがあったのかも知れません。

 現代では、まさに悪い奴ほどよく眠るといった感じでしょう。

 

 そんな鉄面皮の方は心配ご無用なのですが、そこをうまく利用するのが「悪徳」霊能力者な訳です。

  「最近うまくいかないのは、ご先祖様が怒っておられるからです。」

 はじめは、くだらないと思って聞き流していても、毎日100点で暮らしている人なんていないでしょう。なんか、ちょっとした不運があると、「もしかして」と思ってしまうでしょう。

 それに、ご先祖様なんて無限にいらっしゃいますから、ちゃんと供養されていない方がいらっしゃるのは当たり前です。

 さらにはご丁寧に、「母方のご先祖が・・・」なんていう方もおられますね。大体の方は、母方の先祖のことなんてよく分からないでしょうから、自信をもって否定できる人はほとんどいないのではないでしょうか。うまいですね。

 ましてや、自分から霊能力者を頼っていく人は、そもそもが「信じたい」方でしょうからイチコロです。

 

 先輩の住職がこんなことを言っておられました。

 「悩みをもって寺に来る人やったら、いくらでも不安を煽って金を出させることは出来る。出来るんやけど、本当にやってしまったら、坊さんとしておしまいや。」

 一日に一冊以上の本を読む博学多才の方で、心理学方面にも通じておられましたから、その通りだったのでしょう。

 

 「ご先祖様を供養しないとバチがあたる」というのか、「ご先祖様の供養をされたので、きっと喜ばれてますし、守ってくれますよ。」というのか。

 「負」の言葉を使うのか、「正」の言葉を使うのかが、まっとうな宗教者と、そうでない人との違いなのかもしれません。

 

 サンスクリットで「スヴァーハー」という言葉があります。

 そんな言葉、知らないよ、と仰る方もいらっしゃるかも知れませんが、漢訳もしくは和訳した単語なら知っているのではないでしょうか。

 「薩婆訶(そわか)」です。

 般若心経でも、最後に「菩提薩婆訶 般若心経」とありますし、ウチのご本尊の真言は「オン コロコロ マトウギ ソワカ」です。 

 

 「スヴァーハ」は、古代インドで神様に供物を捧げるときに唱えられた言葉だそうです。

 よく、「成就しますように」とか「叶いますように」と訳されますが、実際は「成就した」という意味のようです。

 神仏に願いを届けた時点で、願いは叶ったということなのかもしれません。

 

 ともあれ、不安や恐れから手を合わせて祈るのではなく、手を合わせて祈ることによって神仏に見守られて生きている幸せなイメージを持つことが大事なのではないでしょうか。

 

 たとえば「病気になりませんように」とか「不幸になりませんように」と祈るのではなく、健康で幸せに過ごしている姿をイメージして祈る方が良いでしょう。

 

 お正月に初詣に行かれた方も多いかと存じます。

 お賽銭の分だけ元を取らないと損、とばかりに、必死で祈る方もいらっしゃいますが、神仏は私たちの願いなんてとっくにご承知かもしれません。

 それよりも、心を落ち着けて、神仏に囲まれて「成就した」自分の姿を心に浮かべる方がよい結果をもたらすかもしれません。

不邪淫

 十善戒の話の続きです。

 今日は不邪淫についてです。

 別に、例の記者会見を受けて、タイムリーな話をしようというわけではありません。前回までにお話しした不殺生、不偸盗とあわせて「身」すなわち身体、行動に関する戒律です。

   

 とりあえず意味は、正しい愛情生活を送ることと定義しておきます。

 一般的に人間の三大欲求として、食欲、睡眠欲、性欲が挙げられます。他にも、権力欲や名誉欲なんていうものもありますが、三大欲求は生きていく、あるいは人類が種として生き残っていくうえで必要なものだという点で特別扱いするべき欲求でしょう。

 

 それでは、三大欲求に関するものの中で性欲に関わる不邪淫戒だけが定められているのはなぜでしょうか。七つの大罪でいうと睡眠に身を任せるのは怠惰の罪、食欲に身を任せるのは貪食ということで色欲と同列に挙げられていますが。

 

 おそらくですが、人を傷つけるかどうかの違いなのだと思います。

 睡眠欲に負けて、遅刻しても、多少人に迷惑をかけることがあるかもしれませんが、専ら不利益を被るのは本人です。食欲もそうです。食べ過ぎて、健康を害する羽目になるのは本人です。

 しかし、性欲の場合はそうはいきません。

 たとえば、不倫なんていうものは、精神的に一番信頼している人を裏切り、傷つけるわけです。

 「不倫は文化だ」とのたまった方もおられましたが、旧刑法では姦通罪もありましたし、江戸時代の公事方御定書にも規定されていました。いまは刑法で罰せられることはありませんが(民事上は別)、社会的に大変な目に遭うことがあるのは、何も芸能人だけではないでしょう。

 それでも、やめられない。中には甲子園の常連校みたいに「〇年ぶり〇回目」みたいな人も出てくるわけです。

 だからこそ、わざわざ「戒」として挙げているというのもあると思います。

 

 本当の不邪淫戒の意味としては、一番近くで信頼している人を裏切らない、誠を尽くすことと言った方が正しいのかも知れません。

 

 話がそれるかもしれませんが、僧侶の場合は、少し意味が異なってくるのかと思います。

 自分は、現場にいなかったため、正確に再現しているかどうかは分かりませんが、大体こんな話を耳にしました。

 

 ある寺の二人のお弟子さん(得度したばかりの方たちのようです)の話です。

 一人の方は、仕事を辞めて僧侶になったようです。ただ、進路などのことで師僧に不満があるらしく、高野山大学に入学したら、色々と人脈が得られるだろうから、そこで新たに師僧を得て先に進みたいと言ったそうです。

 

 それに対して、もう一人の方は反対してこう言ったそうです。「今は退職金があるかもしれない。でも、大学に四年間も通ったら、すぐに無くなるわよ。私だったら、そのお金は子供や孫の為に使うわよ。もう少しちゃんと考えなさい。」

 

 もう、訳が分からないです。

 

 まず最初の方。

 師僧と弟子は親子関係です。親は選べませんが、師僧は選べます(弟子も選べますが)。住職になれば必要がなくなりますが、それまではあらゆる場面で師僧のハンコが必要です(中には伝授をうけるのにも必要なときがあります)。ハンコ不要の流れは、ここでは当てはまらないです。だからこそ、尊敬でき、価値観が共有できる師僧をじっくりと探すことが必要だと思います。

 とりあえず、簡単に得度できそうだからという理由で、師僧を選び、思うようにならないから新しい師僧を探すというのは舐めた話です。

 

 次に後者の方。

 反対する理由が頓珍漢すぎます。

 お金に糸目をつけずに、僧侶としての勉強をするということは素晴らしいことです。自分は貧乏ですが、ためになると思う伝授があれば何とかして受けています。

 中には、役僧なんか葬儀や法事以外の知識なんか必要ないのに、と、役僧時代に伝授を受けている自分のことを冷ややかに見ていた方もいたと思います。

 でも違います。直接の伝授内容自体はすぐに使う場面が無いとしても、すごい大阿たちのお話は、雑談や昔話の中にも、目から鱗が落ちるようなヒントがたくさんあります。

 僧侶として勉強するよりも、家族にお金を使いなさいというのはおよそ僧侶の言葉ではないのではないでしょうか。

 そういう意味で、僧侶の不邪淫は、家族を持つと、そこに執着がでて、僧侶の本分が果たせなくなってしまうから注意しなさいということかもしれません。

 お釈迦さまも、お子様が産まれたときに、出家する「妨げ」になるという意味の「ラーフラ」という名前をつけたといわれていますし。

 

 僧侶の持ち物は限られています。昔は三衣一鉢だったのが、のちに少しずつ増えて十種になります。その中に「寺」は含まれていません。僧侶は家業ではありませんし、寺は僧侶のものではありません。仏様の住まいであり、仏様と仏法を求める方たちのものです。

 皆さん、月に一度の薬師護摩に熱心にお参りしてくださり、ありがたいですが、それ以外の日にも、ふらっと立ち寄って、拝んで帰ることのできるような開かれたお寺にしていきたいと思います。

 来年もよろしくお願いいたします。

 

※ 令和2年12月8日 薬師護摩法話に加筆修正したものです。

 

 

そこに仏様はいますか?

 先日、回忌法要で伺った家の方から質問されました。

 内容は、家の仏壇の上には部屋があるため、歩き回ったりして、失礼があってはいけないと思い、仏壇の上に手書きの「空」の文字を書いた紙を貼ったのだが、それでいいのでしょうか、ということでした。

 

 これは「雲切」というものです。

 平屋の家が当たり前だった時代には問題にならなかったのでしょうが、二階建ての家、さらにはマンション住まいの方が多くなるにつれてよく用いられています。

 仏壇の場合はあまり問題にしないですが、神棚の場合は結構、一般的で、教義によるものというよりも習俗といった方が良いでしょう。

 神棚の上に「雲」「天」「空」の文字を置くことで、神聖な神棚の上には何もないですよ、という意味の結界をはるようなものです。

 

 以前、別の檀家さんからは、仏壇の裏がトイレにあたることが申し訳ない気がする、という相談があり、その際には烏枢沙摩明王の御幣をご用意して不浄除けの結界をはらせてもらったこともあります(以前にFacebookであげた黄色い御幣です)。

 

 いずれの方も、仏壇がただのインテリアになっているわけではなく、仏様をお迎えする応接室と見ておられるからこそできる心遣いなわけで、非常にありがたい思いをいたしました。

 

 以前に、社会人向けに仏教を教える塾で講師をしていたことがあります。

 そこは、知識として仏教を学ぶだけではなく、僧侶を目指そうという方も結構おられました。

 ある千葉のお寺さんの一角を教場としてお借りしていたのですが、あるときその寺の方からこんなことを言われました。

 「おたくの生徒さん、本堂の前で手を合わせる人少ないよね。」

 恥ずかしかったです。

 寺は仏様のお住まいです。本堂の前を素通りすることは、目の前にいらっしゃる仏様に挨拶しないで横切ることです。一般の方なら仕方ないですが、僧侶を目指す方がそれというのはあまりにお粗末です。残念ですが、これは教えられたからするものではないと思います。そこに仏様がいると感じているのかどうかということにつきるのではないでしょうか。

 

 よく、仏壇の飾りつけや、どんなお経をあげたらよいのかを尋ねてくださる方がいます。一応、一般的な答えは用意できますが、唯一絶対のものではありません。

 

 結局は、そこに、仏様がいらっしゃると思い、おもてなしをするということにつきるのではないでしょうか。

 難しいお経をあげないと駄目だと思い、後回しにしてしまうよりも、朝起きたら「おはようございます」とご挨拶をし、夕方には「ありがとうございました」と感謝。

 季節の美味しいものが手に入ったら、先に仏壇にあげてから食べる、とかいった簡単なことでも仏様はよろこんでくださるでしょう。

 

 以前にも書きましたが、「仏様だから拝むのではなく、拝むからこそ仏」です。

 仏様に近くにいてもらえるかどうかは、私たち次第なのでしょう。

 

 

パスカルの賭け 仏の世界は有るか?

 「あの世」ってあると思いますか?

 冒頭から、変なことを言って驚かれたかも知れません。

 「あの世」があると思っているから、葬儀もするし法事もしているんだと言い切る方もいらっしゃるでしょう。

 しかし正直、存在に確信を持てないけれども、慣習としてやっておいた方がいいよなとか世間体を鑑みて、葬儀や法事をされている方も多いのではないでしょうか。

 

 僧侶なら「あの世」を信じていて当たり前、と思われるかも知れませんが、実はそうとも言い切れません。以前に「霊魂の存在」について書かせていただきましたが、それと同様に宗派によって微妙に立場が異なっているようです。

 また、「あの世」の存在を肯定していても、教主(浄土の「ボス」)が、お釈迦さまであったり、阿弥陀さんであったり大日如来であったりと様々です。

     

 よく「合理主義者」とか「唯物論者」を名乗る方は、あっさりと「あの世」を否定したりします(それ以前に宗教そのものを否定したりしますよね)。

 中には仏教徒でありながら「仏教原理主義者」を標榜する方もいて、仏教は「無我」であるから、「霊魂」を否定するのと同時に霊魂の安らぎの場所である「あの世」をも否定たりするわけです。

 前者については、一見格好よさそうですが、自分の見たものや理解できることしか肯定できないなんて、想像力の欠如したかわいそうな「ヒト(動物としての)」に思えてなりません。

 後者については、この点で他の宗教の笑いものなることがあることを知るべきでしょう。死んだら何もなくなるということは、どうせ死んだらおしまいなんだから「責任のある生き方」をしなくてもよいという考えに通じかねないからです。

 

 一方、「あの世」の存在を担保する理由として「臨死体験」を挙げる方もいらっしゃいます。

 死にかけたときに、三途の川が見えて、その向こうにはお花畑があり、死んだおじいちゃんが手招きしてた、とかいうものです。

 しかし、これだけでは証明にならないのかな、と思います。

 というのも死にあたっては、死に対する恐怖や痛みを緩和する一種の麻薬成分ともいえるエンドルフィンが分泌されることが知られています。また近年では、別の成分の存在も主張されているようです。

 そして、以前は前述のような「三途の川」パターンが多かったのに対して、最近では光に包まれた、とか、真っ白な世界にいた、という「無」のパターンが増えているようです。

 このことからも、結局のところ、知識として持っている「あの世のイメージ」が幻覚によって顕在化しただけとも考えられるからです(昔の人と異なり、今の人は三途の川とかピンとこない人が多いでしょうから)。

      

 タイトルのパスカルとは「人間は考える葦である」でお馴染みのあの人です。

 彼は、著書『パンセ』の中で、神の国が存在するか否か賭けをするとしたら、「存在する」方に賭けるべきであるとしています。理由は以下の通りです。

 

 「なぜなら、神が存在するように生きたとしたら、神が実在したときに、私たちは天国を得ることになる。

 もし神が実在しないのだったとしても、何も失うものはない。

 逆に、もし神が実在しないかのように生きて、実は本当に神が存在するのなら、私たちは地獄と罰を得たことになり、天国とその無上の幸福を失ったことになるからだ。」

     

 信仰に関することを、合理性や有利性という尺度のはかりにかけて判断するのはふさわしくないのかもしれませんが、一理あるように思います。

 

 亡くなって旅立つときに、仏様の世界に歓迎されるように、いまを正しく生きる。

 亡くなった方々が仏様の世界で心安らかにに過ごせるように願って、祈る。

 

 わざわざ、千年以上我が国の風土に根付いてきた仏の世界を否定して暮らすよりも、心豊かに過ごすことができるように思いませんか。

 

 ※ 寺報「西山寺通信」令和2年12月号の内容を加筆修正したものです。

 

お礼参り 願ほどき

 昨年末のことです。

 拙寺にマイクロバスが止まり、中からぞろぞろと人がおりてくるのが見えました。

 うちは観光寺院ではありません。行事のときは檀信徒の方が来てくださいますが、普段は閑散とした寺です。

 怪訝に思い、よく見てみると常々、星祭や薬師護摩でお世話になっている信徒さんたちでした。

 お話しを伺うと、一年間お世話になった色々な寺社にお礼参りをしてまわっているとのことでした。

 網元さんであり、料亭もされている方なので、漁師さんや従業員の方を連れて、バスで「お礼参りツアー」をされていたわけです。

 手作りの奉納のぼりを納めて下さり、帰って行かれたときには、何とも言えない幸せな気持ちになりました。

 

 「お礼参り」と同じような意味で用いられる言葉として「願ほどき」というものがあります。

 願い事が叶った後、神仏に感謝を述べて、祈願に対する神仏のはたらきを止めてもらう行為といえばよいでしょうか。

 祈願系の伝授をうけたときの話です。

 縁結びの祈願をお願いした方が、無事に良い方と巡り合って結婚したそうです。ところが、うまくいかない。何の不足も不満もないのにです。本人にもよくわからない状況だったそうです。

 同じように、希望の会社や学校に入ることができたのに、すぐに辞めるはめになったという例も。

 共通していたのは、「願ほどき」をされてなかったそうです。

 もしかしたら、神仏は、願主がまだ満足できていないのか?と思い、「親切にも」働き続けておられたのかもしれないということでした。

 

 ただの偶然かもしれないですし、過度に不安を煽るつもりはありません。

 ちょっと調べると、何を根拠としているのか「願ほどき」のハウツーが色々と紹介されているようですが、そんなに難しく考えることはないと思います。

 

 あるとき、檀家さんから、御札や御守の御焚き上げを依頼されました。

拙寺の御札もありましたが、遠方の社寺のものもありました。その中には安産祈願で有名な宝塚の中山寺の御札も。

 「おかげさまで、孫が産まれました。本当は直接お参りしてお礼を言わなければならないと思うんだけど・・・」

という言葉を添えてくださったのには、ほっこりしました。

 なかには、お礼参りに行けないような場所で、めったやたらとお願いするもんじゃない等とおっしゃる方もいますが、そこまで、厳しいことを言うつもりはありません。但し、どこにお礼を言っていいのか分からなくなるくらいに願いを濫発するのはやめた方がいいのかもしれません。

 

 願ほどきなんてただの迷信だと言い切る方もいらっしゃいます。そういう方にとっては、そもそも願掛け自体が迷信であり無意味なものでしょう。

 

 自分が、幸せな気持ちにさせていただいたくらいですから、お礼を言われた神様や仏様も喜んでくださっているに違いないと思います。

 

 よく同じ御札や御守を沢山集めている方もいらっしゃると思います。同じ御札や御守を集めても、ゲームみたいに「限界突破」してパワーアップするものではないでしょう。それよりも前に頂いたお札や御守を感謝の気持ちを込めてお返ししたうえで、新しいものを授かる方が験があらわれるように思いませんか。

 

 一年間(もしかたら数年、数十年)頑張ってくださった御札や御守がありましたら、お持ちいただければと存じます。皆様の感謝の気持ちとともにお焚き上げさせていただきます。