離乳食だけでは・・・

 先日、新義真言宗の本山である根来寺さんにお参りしてきました。

 そこで、たまたま知己のお坊さんと再会しました。

 

 その方と初めてお会いしたのは10年以上前に受けた高野山大学での伝授でした。

自分にとっては、少し歯ごたえのある内容で、伝授阿闍梨さんのおっしゃっている

ことをノートに写すのに必死でした。それどころか、知識不足であるため、おっし

ゃった用語がよく分からず、漢字変換ができず、とりあえずひらがなで書き留めて

いました。 自分の身の丈に合わない伝授を受けてしまったのかと不安になりまし

た。

 

 休み時間に、教室を見回すと、後ろの方でノートパソコンを開いて、キーボード

をたたいておられる方がいらっしゃいます。

 伝授の会場には、少し似合わない光景でしたのが気になって、近づいてお声がけ

しました。

 すると、その方は、この伝授を受けるのが三回目だとおっしゃいました。

 一度では、なかなか理解できないので、毎年この伝授を受けて、不明点をつぶし

ていっているとのことでした。

 ノートパソコンの中には、自分オリジナルの「講義録」が入っており、それを都

度都度、補完されていたわけです。

 

 そういう意味では、伝授に対する姿勢というものを教えていただいた方です。

 自分もその方に倣って、翌年も、同じ伝授を受けました。

 もう一年受けたかったですが、以降は開かれなくなってしまいました。

 

 自分が受けた二年目のとき、伝授阿闍梨さんが仰いました。

 

 「伝授の内容が難しいという声があります。早すぎて分からない。もっと板書

してくれないと、どんな字か分からない。レジュメを作ってくれ、等です。

しかし、伝授というのは本来こういうものです。分からない字があれば、とりあ

えずひらがなで書き留めて、あとで調べるべきです。自分たちもそうやってきま

した・・・・。」

 

 どうやら、しょうもないクレームをつけた受者がいたようです。

 伝授阿闍梨さんに、こんなことを言わせるなんて恥ずかしくないでしょうか。

 そもそも受者の資格は阿闍梨のみ、という伝授です。

 あなたたち、本当に加行したんですか?

 なんか腹立だしい気分でした。

 

 あるとき、やはり高名な大徳の講習会をうけたときのことです。

 受者の中には、いつもは自分たちに伝授してくださる立場のすごい先生たち

がいらっしゃるようなものでした。先に述べた伝授阿闍梨さんも一受者として

座っておられました。

 

 その講義の際には、延々と先生が口述するのを、受者がひたすら書き留めなく

てはならない場面が何度かありました。自分の知識不足のせいもあるでしょうが、

どう考えても完璧に書き留めるのは難しいスピードでした。

 その後、その内容を記した資料が配られました。

 

 それなら、はじめからそれを配布しておけ、と思うかもしれません。

 でも、そうではないんでしょうね。

 こうすることで、昔ながらの伝授の伝統的スタイルを伝えたかったのかもしれ

ません。

 

 昔、塾講師をしていたときのことです。

 ある進学校の先生が「〇〇塾から入ってきた子は、伸びない。」とおっしゃった

のを耳にしました。

 すごく合格実績の出ている有名進学塾の名前だったので意外でした。

 ひょっとすると、手取り足取り、親切すぎるくらいに、勉強方法がマニュアル化

されているため、「傾向と対策」で何とかなる入試には強いものの、それが通用し

ないレベルに対応する地力がついていないからだったのかもしれません。

 

 今までにも書いてきたことなのですが、カルトと「まっとうな」宗教との区別

は微妙です。

 

 ある方の意見では、カルトの特徴は、容易に「救われる」ことを売りにしている

そうです。

 

 それに対して、「まっとうな」仏教で悟りを得ることは困難です。

 

 お釈迦様が亡くなられるときに、弟子たちが集まって最後に何か良い「秘伝」

が聞けるのではないかと期待していました。それに対して、お釈迦様は「私はも

う拳を握ってない。」とおっしゃいます。もう全て伝えたよ、という意味です。

 そして、少しがっかりした弟子たちに、「みずからをよりどころとせよ。」と

続けたのです。

 

 その後、日本仏教の宗祖さんたちは、なるべく多くの方が、少しでも、悟り

「易く」なるように、救われ「易い」ようにと、色々と工夫されました。結果、

色々な宗派が登場したわけです。

 しかし、それでも簡単ではありません。

 

 わが真言宗も、他宗が「三劫成仏」といって、何度も輪廻して、多大な時間を

かけなければ成仏できないのに対して、うちは「即得成仏」ですよ、というので

すが、それでも決して簡単なものではありません。

 

 「仏教」「密教」のジャンルの本は数え切れません。何を買って読めばよいのか、

頭を抱えてしまいます。

 また、ネット上で、これらの単語をキーワード検索すると、首をかしげたくなる

ようなサイトや動画が際限なく引っかかってきます。

 

 少なくとも、「覚り」や「救い」を安売りしている方たちには、少し用心された

方が良いのかもしれませんね。

 

 たしかに、悩み、苦しみ、即座に何とかしてほしいという方も多いかと思います。

 そして、宗教というものは、そういう方に応えられないようでは存在意義が疑わ

れます。

 しかし、まやかしの、耳障りの良い「離乳食」を提供するだけが宗教ではないで

しょう。

 寄り添うことはできても、最後は、本人が自分で歩いてくれなくてはどうにもな

りません。

 

 たしかに「大乗仏教」とは言いますが、乗り込んだら、目的地にオートマチック

に運んでくれることを意味しません。

 

 たまに、宗教や宗派などをコロコロ変え続けている方が、拙寺に相談されたりす

ることがあります。本人はいたって真面目なのかもしれませんが、傍目に見ている

と、結局、乗り物を延々と選び続けているだけで、一歩たりとも進んでいない、も

しくはエンジンするかけていないようにも見えたりします。

 

 まっとうな宗教と巡り会えたのであれば、その縁を大切にしてほしいです。

 必ず目的地へつながっています。まずは、そこで必死であえいでみませんか。

 「隣の芝は青い」よろしく、いつまでも右往左往していられるほど人生は長くな

いです。