脇道を見る余裕を ~ 本当のタイパ

 今年も残り少なくなってきました。

 徐々に今年を振り返る、といった特集が組まれるようになってきますね。

 その中に、流行語大賞や新語大賞でしょうかなんてものもありますね。

 ところで、昨年の新語大賞の言葉を覚えておられますか。

 「タイパ」、タイムパフォーマンスでした。コストパフォーマンスの時間版といったところで、いかに効率よく時間を活用するかという「時間対効果」のことです。

 そんな難しいことを考えて行動していません、と思う方もおられるかもしれませんが、動画の倍速再生なんかもそれに当てはまりますので、無縁な方はいないでしょう。

 今日は「タイパ」に関したお話をしたいと思います。

 

 フェイスブックでも報告していますが、色々なところに「伝授」を受けに行っています。

 阿闍梨になるために高野山で「加行」という修業はしたのですが、真言宗でいう「阿闍梨」には住職資格くらいの意味しかなく、ようやく本格的な修業ができるという「資格」を得たにすぎません。

 

 実際、加行を終えただけでは、今日の薬師護摩はできません。そんなことは習わないです。正月の星まつりなんかはもちろんのことです。

 

 ですから、色々なニーズに応えるべく色々な講習や伝授を受けに行かせていただいています。もっとも、時間とお金の制約があるので、これぞというものに限ってとなりますが。

 

 以前に、後輩が、とある伝授に行きました。その伝授は、自分も行きたかったものでしたが、都合がつかずに諦めたものでした。そこで、感想を聞いてみました。すると、

 「あの先生、雑談ばかり。時間がもったいなかった。」

とのことでした。

 自分は、その先生の伝授が好きなので、意外な返事に驚き、やはりその伝授を受けられた先輩に、今回の伝授がいつもと何か違ったのか、と尋ねましたが、

 「いつもと同じだったよ。自分は、そういった伝授と直接関係ない話の方が、色々と役に立つと思うんだけどな。残念だな。」

と仰っていました。

 

 自分も同じ考えです。

 伝授をしてくださる先生方は、行者としては超一流の方々です。自分も、伝授内容以外の話のおかげで、迷いが無くなったり、ヒントを得たりしたことが少なくありません。また、別の機会にお話しすることもあるでしょうが・・・。

 

 せっかくの「お宝」を前に、雑談と切って捨てて、「時間の無駄」と文句を言う人こそが、タイパという点では、時間を無駄遣いしているのではないでしょうか。

 

「医王の目には途に触れてみな薬なり、解宝の人は鉱石を宝と見る」

 これは、お大師様の言葉です。お医者さんの目で見れば、道端の雑草も薬草と映り、宝石がに詳しい人が見れば、ただの石ころも宝石に見えるという意味です。

 

 薬草を見分ける目をもっているかどうか以前に、道端の草花に目も向けない人が多くなっているのではないでしょうか。

 

 私たちが一生の中で、見たり聞いたりできるものには限りがあります。この世のすべてのものが神仏が作ったものであるならば、無駄なものなどある訳はありません。

 一つたりとも、見逃すまい、聞き逃すまい、と思うことこそ、一生という時間の「タイパ」では大切ではないでしょうか。

 

 まずは夜空を見上げて月の美しさに感動してみる、野に咲く花を愛でてみる、鳥の鳴き声に耳を澄ます。

 そんな心の余裕を持つことが、効率的ではないかもしれないですが、時間を「豊かに」使うことなのは間違いないのだ思います。

 

※ 令和5年10月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

修法は辛いものであってはダメ

 自分も教えていただいたことのある高名な僧侶の方がこんなことを書いておられました。

「人のために祈って、施主さんが救われるのはもちろんだが、代わりに自分が疲れてしまうような人は、行者に向いていない。」

 

 自分が、高野山で、「加行」という修業の途中で、伝授阿闍梨様より

「どうですか?」

と声をかけていただいた際

 「楽しいです。おかしいでしょうか?」

とお答えしました。

 大阿様は、何もおっしゃいませんでしたが、笑顔だったように思います。

 

 高野山の加行は約100日、外界とは連絡が取れません。昔は、加行が終わって出てきたら、戦争が終わっていたなんてこともあったそうです。今でも、加行期間中は親の葬儀にも出れません。正確には、出ても良いのですが、その場合、最初からやり直しです。

 また基本的には、一日中、修法や勤行をしています。

 特に、最後の護摩加行にはいると、慣れていないこともありますが、一座3時間前後かかるものを、日に3座ずつ。それ以外にも朝夕の勤行もありますから、睡眠時間は3時間くらいです。

 

 身体的にはきついのですが、楽しかったのはウソではありません。

 今までは、仏さまの前で手を合わせて、せいぜいその仏様に関するお経や真言をあげるくらいしか知らなかったわけです。

 しかし、行を進めていく中で、より丁寧な拝み方を学んでいくのです。

 詳しくは申し上げることができませんが、分かりやすく言うと、VIPを自宅に招待して、全力でおもてなしをするかのように、仏さまを供養する作法を学ぶのです。

 

 今日の護摩もそうです。

 前にも申し上げましたが、護摩は皆さんと仏様とのお食事会のようなものです。炉の口は仏さまの口です。どんどんご馳走をふるまっていくのが護摩です。

 仏さまとテーブルを一緒にするわけですから、参加する皆様にもそれなりのドレスコードが必要です。

 ですから、最初に洒水加持をして浄めて、さらには百八本の護摩木により煩悩を焼き尽くしています。

 おなか一杯になって満足された仏さまに、皆さんの願いを書いた添え護摩木をメッセージとしてお届けしているわけです。

 視覚的にもわかりやすいですよね。楽しくないですか。

 

 これは、祈願だけでなく葬儀のような「しんみりした」状況でも同様です。

 葬儀は、仏さまの世界に「帰る」作法です。

 導師は、自分が阿闍梨になったときの伝法灌頂と同様の作法もしています。要は自分の受けたすべてを「お土産」にして旅立っていただきます。

 悲しいお別れではあるのですが、感謝の気持ちで送り出す方々、その姿を嬉しそうに見ている故人、そして、ねぎらうように迎えに来てくださる仏さまたち、そのすべての方たちの「晴れ」の旅立ちの宴です。

 故人様が、大切な方たちに感謝されて送り出されたことで、自分が生きてやってきたことは間違いないものであったと安心して、誇らしくされている姿が眼前に浮かぶと、自分も嬉しくなります。

 

 長いお経や真言を必死で唱えることよりも大切なことがあります。

 目の前の仏様を観じることです。仏さまになったご先祖も同様です。

 こんなに近くにいらっしゃること。見守り続けてくださることを感じることができると、嬉しくて、楽しくないでしょうか。

 

 今日の薬師護摩で、お薬師様を近くに感じて、楽しんでいただけたとしたら幸いです。

 

※ 令和5年9月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

御礼肥え ~感謝で大きな花を咲かす

 秋になり、夏に咲き誇ってくれた蓮たちもほとんどが枯れてしまいました。

 枯れてしまったから世話は終わりというわけではなくて、今は「御礼肥え」の時期です。

 いらしている中には、農家の方もいらっしゃるので、自分が説明するのも気恥しいですが、御礼肥えとは、蓮に限らず、花が咲いた後や、実を収穫した後に肥料をあげることです。

 これをすることで、花や実をつけることで疲れた植物の疲労回復を図ります。これを怠ると、翌年は花や実をつけてくれません。

 

 「御礼肥え」という表現も本当に素敵だと思います。

 

 以前にも申し上げましたが、蓮は仏教的な意味をたくさん含む植物です。

一番有名なのは「泥中不染」すなわち、泥の穢れに染まらずに美しく咲く蓮が、自分たちの生き方の理想とするものです。

 

 そして、この「御礼肥え」も蓮だけに当てはまることではないですが、仏教的な格言が含まれているように思います。

 

 寺や神社で一生懸命に拝む方は多いです。賽銭箱にわずかばかりの小銭を入れて、元を取らないと損とばかりに拝んでいる方も多いでしょう。

 しかし、願うときには必死でも、日々の感謝のために手を合わせに来る方は少ないのではないでしょうか。

 

 よく仏教の根本は何か、というと「慈悲」を挙げることがあります。自分は「感謝」も挙げられると思います。

 

 日々、幸せなことがあった場合はもちろん、何事もなく過ごすことができたならば、「御礼肥え」よろしく、感謝をしなくてはいけません。利に訴えるようでいやらしい様に聞こえるかもしれませんが、それが花を咲かせ続けるコツです。

 

 難しいのは、うまくいかなかいことが続いている場合です。

 花も咲いていないのに「御礼」なんて、と思いがちです。

 下手すると「神も仏もあるものか」とそっぽを向いてしまうかもしれません。

 

 ここで、ウチで咲いた蓮の話に戻りますが、今年一番大きな花をつけたのは「原始蓮」という品種です。この護摩堂に一番近いとこで咲いていた9株です。

 実は、この品種は、昨年1株を手に入れて育てたのですが、花が咲かなかった子たちです。

 そして、3月に株分けしようとしたところ、土の中で9株もとれるほど、蓮根が育っていたのです。そして、その結果が今年の夏のあの結果です。

 

 先日、受講してきた宿曜という密教占星術の先生もこうおっしゃっていました。

 「星まわりの悪い時こそ、自分を鍛えて大きくするチャンスです。」

 

 日々、神仏をはじめあらゆる力に「御礼肥え」。

 たとえ、まだ花が咲かなくとも、いつかより多く大きな花を咲かせるために、感謝の気持ちを持ち続けていきたいものです。

 

※ 令和5年9月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

盲亀浮木のおしえ

 先日、三回忌をした方たちのお話です。

 故人様の息子さんが俳優さんなのですが、最近では演出や監督もされているとのこと。

 そして、「もうきふぼく」という舞台の演出をされたとのことでした。

 ひらがな表記なのは、志賀直哉原作の作品と区別するためだったのかもしれませんが、漢字で書くと「盲亀浮木」です。

 

 「盲亀浮木」とは『 譬喩経』に出てくる仏教説話です。

 大海に目の見えない年老いた亀がいます。

 その亀は100年に一度だけ海面に顔を出します。

 そのタイミングで、海面を漂っている木の板に空いた穴にすぽっと顔がはまるというのです。

 

 お釈迦様は、弟子の阿難さんに「そんなことは可能だろうか」と尋ねます。阿難さんは「そんなことは不可能です。」と答えます。

 それに対してお釈迦様は「人間に生まれるということは、それくらい、いやそれ以上にありがたいことなのだ。」とおっしゃったのです。

 

 もちろん、人に生まれることの有難さに感謝して、無駄にすることなく、しっかり生きなさいというたとえです。

      

 その方は、お母様の死によって、色々と考えることがあり、このような題材の作品を作ったとおっしゃっていました。

 

 せっかくいただいた私たちの命なのですが、もれなく「苦」がついてきます。有名なところでは「四苦八苦」です。

 

 「四苦」とは、生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみです。これらに大切な方と別れる苦しみである愛別離苦、逆に会いたくもない奴と顔を合わさないといけない怨憎会苦のほか求不得苦、五蘊盛苦の四つを加えて「八苦」です。

 これらは、残念ながら誰もが避けることのできないものです。そして、避けることができないものであるならば、それを糧にすることができるかどうかが大切なのだと思います。

 年を取ったから分かること、病気になったから分かること、身近な方との別れを経験したから分かること、‥等があるはずです。

 

 残念ながら、カルトと異なり、仏教はなんでも思い通りになりますよ、などと耳当たりの良いことは言いません。

 しかし、苦難に対処する智慧とそれを糧として成長できる智慧を与えてくれるのが、正しい宗教なのだと思います。

 

 「神は越えられない試練を与えない。」

 素敵な言葉です。

 自分自身も「仏さまは越えられない試練を与えない。」と信じています。

 しかし、自身が体験したことがない、想像もつかない試練に直面している方に向かって、この言葉をかける勇気はありません。

 ただ、そのような方の痛み、悲しみをほんのわずかでも共有して、寄り添うことができる人でありたいと思います。

 

 寺報「西山寺通信」令和5年8月号の内容に加筆修正したものです。

施餓鬼の話 2023

毎年、同じような話になってしまいますが、ご容赦ください。

 

法要の中で、ご先祖さん方の供養を祈願する部分に気づかれた方は多いと思います。

そして、それと合わせて皆様の福徳を祈願していたことにも気づかれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 お盆に合わせての施餓鬼法要なんだから、先祖供養だけしっかりやってくれよ。
そんなに欲張るなよ、と思う方もいらっしゃるかもしれません。

 

 しかし、これこそが真言宗の施餓鬼なのです。

 外をご覧ください。

 先週、皆さんにきれいに草刈りをしていただきました。本当にありがとうございました。しかし、もう小さな雑草が続々と顔を出しています。

 

 いくら刈り取っても、次から次へと生えてくる雑草。

 私たちの煩悩、欲というものはこのようなものです。

 一時的に、欲を断ち切って、心静かになったとしても、覚りきった方でもないかぎり、次の瞬間には欲が芽生えてきます。

 

 一般的な仏教では、その都度、その欲を摘み取りなさい、というでしょう。

 

 しかし、お大師様は違います。

 そもそも欲というものを否定しません。

 ただ、欲にも「小欲」と「大欲」があり、推奨されるのは「大欲」です。

 

 一万円欲しいと願うのが「小欲」で、一億欲しいと願うのが「大欲」というわけではありません。

 自分だけの幸せを願うのが「小欲」で、みんなの幸せを願うのが「大欲」です。

 そもそも、自分の幸せを考えない人に、他人の幸せは分からないでしょう。

 

 さきほどの話に戻します。

 雑草は「小欲」です。

 それらをいちいち抜かなくてもいいというのです。

 

 代わりに「大欲」とい大きな木を育てて、枝いっぱいに茂らせなさい、というのです。

 すると、日が当たらない下草の雑草は勝手に枯れてしまうわけです。

 それどころか、枯れた雑草は「大欲」の大木の栄養にすらなるのです。

 

 この施餓鬼では、みなさんはご先祖様のご供養を祈願してくださいました。

 身内とはいえ、自分以外の幸せを願ってくださいました。

 生きている親なら、機嫌を取ればお小遣いがもらえるかもしれませんが、先祖供養は見返りを求めない「大欲」の行動です。

 

 さらには、縁もゆかりもない餓鬼さんたちにもお布施をして、ご供養してくださいました。これはもっとより大きな「大欲」です。

 

 この餓鬼さんたちは、皆さんのご先祖が仏さまの世界に帰られるときには、一緒に帰っていきます。餓鬼道から脱出できるのです。

 そういう意味では、大げさかもしれませんが、成仏のお手伝いをしてあげたのです。

 だからこそ、施餓鬼の功徳は大きいといわれるのです。

 

 苦しみから抜け出して、仏となった餓鬼さんたちは、感謝して皆さんに功徳をもたらしてくれます。

 そして、そのことは、餓鬼さんたちを連れて「里帰り」してきた皆さんのご先祖さんにとって最高の喜びです。

 

 商売でいう「三方良し」みたいで、世俗的に感じるかもしれませんが、人に生まれて、幸せを求めない道理はないでしょう。

 

 今日は、「大欲」という大樹にたくさんの肥料をまいてくださいましてありがとうございました。

 

※ 令和5年 施餓鬼法要での法話に加筆修正したものです。

 

よく見て よく聞き よく生かす

 この中にもいらっしゃいますが、先日高野山に団体参拝に行きました。

 

 高野山では「案内人さん」が案内してくださいました。今回は、自分が高野山

で役僧をしているときからお世話になっている大ベテランの方でした。

  案内人さんも色々な方がいらっしゃいます。

 今回の案内の中にもあったのですが、自分が役僧をしていた蓮華定院墓所

掃除をしていると、次から次へと団体を引き連れた案内人さんが通っていきます。

 しかし、説明する対象や、説明の仕方、内容は様々でした。

 何を伝えたいのか、みなさん必死で工夫されているのだと感じて聞いていました。

 

 一方で、受け手の方も様々です。

 案内人さんの話を聞き漏らすまいと、近くにかぶりつきで聞き、最高のリアク

ションをしている方もいれば、まったく興味を示さない方もいます。

 そして、帰ってきてからも、感動冷めやらずで、感想を伝えてくださる方もい

らっしゃいます。

 

 今回は、金剛峯寺で布教使の方の法話を拝聴する機会もありました。

 その中では、高野山真言宗のスローガンである「生かせ いのち」がテーマと

されていました。

 

 「生かせ いのち」

 

 簡単な言葉に見えますが、非常に奥が深い、多義的な言葉だと思います。

 

 そもそもここでいう「いのち」とは誰の「いのち」でしょうか。

 自分のいのちでしょうか。他人のいのちでしょうか。

 おそらく、その両方だと思います。

 

 落ち込んで、道をとぼとぼ歩いていて、ふと路傍の花に目が留まる。

 それを見て、心が癒されて、顔をあげて歩いていくことができる。

 そうすると、花によって私たちが生かされ、前向きに私たちが生きることで

花も生かされるわけです。

 

 鬱々とした気分で、夜空を見上げて、月の美しさに気づき、心が洗われた

とき、月にによって自分たちは生かされ、また私たちが月を生かすのです。

 

 朝、疲れ切って布団から出たくないようなとき、鳥のさえずりに後押しされて

気持ちよく一日がスタートできたとき、自分も鳥も互いに生かしあってるのです。

 

 ただ、先に挙げたように、同じ対象が目の前にあっても、見え方や聞こえ方は

様々です。そもそも、見ることも聞くこともしていない人さえ多いです。

 

 私たちの一生など一瞬です。

 目にすること、耳にすることにも限りがあります。

 もったいないですよね。

 

 漫然と見たり聞いたりするのも、もったいないです。

 

 どうせなら「生かし 生かされる」ように見聞きしたいものです。

 

 そのコツは「感謝」なのだと思います。

 

 花は、虫に受粉を手伝ってもらおうと咲いているだけで、人を喜ばそうとして

咲いているわけではない、とか、月は自分の意志で輝いているわけではないし、

そもそも太陽の光を反射しているだけ・・・とか言う方は、どうぞご自由に。

 

 今回も、案内人さんが工夫を凝らして、これだけは伝えたいということを考え

てくれているのだな、と感謝して、その思いを汲み取って聞いていた方は、互い

を「生かす」ことができていたのでしょう。

 

 面倒くさいこの娑婆の世界ですが、これも仏さまの作った修業向け「テーマ

パーク」なのかもしれません。

 命がけで山を登ったり、滝に打たれるのだけが修業ではありません。

 感謝して よく見て よく聞く そして生かしあう 

 これも素晴らしい修業なのだと思います。

 

※ 令和5年6月 薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

 

 

 

離乳食だけでは・・・

 先日、新義真言宗の本山である根来寺さんにお参りしてきました。

 そこで、たまたま知己のお坊さんと再会しました。

 

 その方と初めてお会いしたのは10年以上前に受けた高野山大学での伝授でした。

自分にとっては、少し歯ごたえのある内容で、伝授阿闍梨さんのおっしゃっている

ことをノートに写すのに必死でした。それどころか、知識不足であるため、おっし

ゃった用語がよく分からず、漢字変換ができず、とりあえずひらがなで書き留めて

いました。 自分の身の丈に合わない伝授を受けてしまったのかと不安になりまし

た。

 

 休み時間に、教室を見回すと、後ろの方でノートパソコンを開いて、キーボード

をたたいておられる方がいらっしゃいます。

 伝授の会場には、少し似合わない光景でしたのが気になって、近づいてお声がけ

しました。

 すると、その方は、この伝授を受けるのが三回目だとおっしゃいました。

 一度では、なかなか理解できないので、毎年この伝授を受けて、不明点をつぶし

ていっているとのことでした。

 ノートパソコンの中には、自分オリジナルの「講義録」が入っており、それを都

度都度、補完されていたわけです。

 

 そういう意味では、伝授に対する姿勢というものを教えていただいた方です。

 自分もその方に倣って、翌年も、同じ伝授を受けました。

 もう一年受けたかったですが、以降は開かれなくなってしまいました。

 

 自分が受けた二年目のとき、伝授阿闍梨さんが仰いました。

 

 「伝授の内容が難しいという声があります。早すぎて分からない。もっと板書

してくれないと、どんな字か分からない。レジュメを作ってくれ、等です。

しかし、伝授というのは本来こういうものです。分からない字があれば、とりあ

えずひらがなで書き留めて、あとで調べるべきです。自分たちもそうやってきま

した・・・・。」

 

 どうやら、しょうもないクレームをつけた受者がいたようです。

 伝授阿闍梨さんに、こんなことを言わせるなんて恥ずかしくないでしょうか。

 そもそも受者の資格は阿闍梨のみ、という伝授です。

 あなたたち、本当に加行したんですか?

 なんか腹立だしい気分でした。

 

 あるとき、やはり高名な大徳の講習会をうけたときのことです。

 受者の中には、いつもは自分たちに伝授してくださる立場のすごい先生たち

がいらっしゃるようなものでした。先に述べた伝授阿闍梨さんも一受者として

座っておられました。

 

 その講義の際には、延々と先生が口述するのを、受者がひたすら書き留めなく

てはならない場面が何度かありました。自分の知識不足のせいもあるでしょうが、

どう考えても完璧に書き留めるのは難しいスピードでした。

 その後、その内容を記した資料が配られました。

 

 それなら、はじめからそれを配布しておけ、と思うかもしれません。

 でも、そうではないんでしょうね。

 こうすることで、昔ながらの伝授の伝統的スタイルを伝えたかったのかもしれ

ません。

 

 昔、塾講師をしていたときのことです。

 ある進学校の先生が「〇〇塾から入ってきた子は、伸びない。」とおっしゃった

のを耳にしました。

 すごく合格実績の出ている有名進学塾の名前だったので意外でした。

 ひょっとすると、手取り足取り、親切すぎるくらいに、勉強方法がマニュアル化

されているため、「傾向と対策」で何とかなる入試には強いものの、それが通用し

ないレベルに対応する地力がついていないからだったのかもしれません。

 

 今までにも書いてきたことなのですが、カルトと「まっとうな」宗教との区別

は微妙です。

 

 ある方の意見では、カルトの特徴は、容易に「救われる」ことを売りにしている

そうです。

 

 それに対して、「まっとうな」仏教で悟りを得ることは困難です。

 

 お釈迦様が亡くなられるときに、弟子たちが集まって最後に何か良い「秘伝」

が聞けるのではないかと期待していました。それに対して、お釈迦様は「私はも

う拳を握ってない。」とおっしゃいます。もう全て伝えたよ、という意味です。

 そして、少しがっかりした弟子たちに、「みずからをよりどころとせよ。」と

続けたのです。

 

 その後、日本仏教の宗祖さんたちは、なるべく多くの方が、少しでも、悟り

「易く」なるように、救われ「易い」ようにと、色々と工夫されました。結果、

色々な宗派が登場したわけです。

 しかし、それでも簡単ではありません。

 

 わが真言宗も、他宗が「三劫成仏」といって、何度も輪廻して、多大な時間を

かけなければ成仏できないのに対して、うちは「即得成仏」ですよ、というので

すが、それでも決して簡単なものではありません。

 

 「仏教」「密教」のジャンルの本は数え切れません。何を買って読めばよいのか、

頭を抱えてしまいます。

 また、ネット上で、これらの単語をキーワード検索すると、首をかしげたくなる

ようなサイトや動画が際限なく引っかかってきます。

 

 少なくとも、「覚り」や「救い」を安売りしている方たちには、少し用心された

方が良いのかもしれませんね。

 

 たしかに、悩み、苦しみ、即座に何とかしてほしいという方も多いかと思います。

 そして、宗教というものは、そういう方に応えられないようでは存在意義が疑わ

れます。

 しかし、まやかしの、耳障りの良い「離乳食」を提供するだけが宗教ではないで

しょう。

 寄り添うことはできても、最後は、本人が自分で歩いてくれなくてはどうにもな

りません。

 

 たしかに「大乗仏教」とは言いますが、乗り込んだら、目的地にオートマチック

に運んでくれることを意味しません。

 

 たまに、宗教や宗派などをコロコロ変え続けている方が、拙寺に相談されたりす

ることがあります。本人はいたって真面目なのかもしれませんが、傍目に見ている

と、結局、乗り物を延々と選び続けているだけで、一歩たりとも進んでいない、も

しくはエンジンするかけていないようにも見えたりします。

 

 まっとうな宗教と巡り会えたのであれば、その縁を大切にしてほしいです。

 必ず目的地へつながっています。まずは、そこで必死であえいでみませんか。

 「隣の芝は青い」よろしく、いつまでも右往左往していられるほど人生は長くな

いです。