盲亀浮木のおしえ

 先日、三回忌をした方たちのお話です。

 故人様の息子さんが俳優さんなのですが、最近では演出や監督もされているとのこと。

 そして、「もうきふぼく」という舞台の演出をされたとのことでした。

 ひらがな表記なのは、志賀直哉原作の作品と区別するためだったのかもしれませんが、漢字で書くと「盲亀浮木」です。

 

 「盲亀浮木」とは『 譬喩経』に出てくる仏教説話です。

 大海に目の見えない年老いた亀がいます。

 その亀は100年に一度だけ海面に顔を出します。

 そのタイミングで、海面を漂っている木の板に空いた穴にすぽっと顔がはまるというのです。

 

 お釈迦様は、弟子の阿難さんに「そんなことは可能だろうか」と尋ねます。阿難さんは「そんなことは不可能です。」と答えます。

 それに対してお釈迦様は「人間に生まれるということは、それくらい、いやそれ以上にありがたいことなのだ。」とおっしゃったのです。

 

 もちろん、人に生まれることの有難さに感謝して、無駄にすることなく、しっかり生きなさいというたとえです。

      

 その方は、お母様の死によって、色々と考えることがあり、このような題材の作品を作ったとおっしゃっていました。

 

 せっかくいただいた私たちの命なのですが、もれなく「苦」がついてきます。有名なところでは「四苦八苦」です。

 

 「四苦」とは、生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみです。これらに大切な方と別れる苦しみである愛別離苦、逆に会いたくもない奴と顔を合わさないといけない怨憎会苦のほか求不得苦、五蘊盛苦の四つを加えて「八苦」です。

 これらは、残念ながら誰もが避けることのできないものです。そして、避けることができないものであるならば、それを糧にすることができるかどうかが大切なのだと思います。

 年を取ったから分かること、病気になったから分かること、身近な方との別れを経験したから分かること、‥等があるはずです。

 

 残念ながら、カルトと異なり、仏教はなんでも思い通りになりますよ、などと耳当たりの良いことは言いません。

 しかし、苦難に対処する智慧とそれを糧として成長できる智慧を与えてくれるのが、正しい宗教なのだと思います。

 

 「神は越えられない試練を与えない。」

 素敵な言葉です。

 自分自身も「仏さまは越えられない試練を与えない。」と信じています。

 しかし、自身が体験したことがない、想像もつかない試練に直面している方に向かって、この言葉をかける勇気はありません。

 ただ、そのような方の痛み、悲しみをほんのわずかでも共有して、寄り添うことができる人でありたいと思います。

 

 寺報「西山寺通信」令和5年8月号の内容に加筆修正したものです。