「あの世」ってあると思いますか?
冒頭から、変なことを言って驚かれたかも知れません。
「あの世」があると思っているから、葬儀もするし法事もしているんだと言い切る方もいらっしゃるでしょう。
しかし正直、存在に確信を持てないけれども、慣習としてやっておいた方がいいよなとか世間体を鑑みて、葬儀や法事をされている方も多いのではないでしょうか。
僧侶なら「あの世」を信じていて当たり前、と思われるかも知れませんが、実はそうとも言い切れません。以前に「霊魂の存在」について書かせていただきましたが、それと同様に宗派によって微妙に立場が異なっているようです。
また、「あの世」の存在を肯定していても、教主(浄土の「ボス」)が、お釈迦さまであったり、阿弥陀さんであったり大日如来であったりと様々です。
よく「合理主義者」とか「唯物論者」を名乗る方は、あっさりと「あの世」を否定したりします(それ以前に宗教そのものを否定したりしますよね)。
中には仏教徒でありながら「仏教原理主義者」を標榜する方もいて、仏教は「無我」であるから、「霊魂」を否定するのと同時に霊魂の安らぎの場所である「あの世」をも否定たりするわけです。
前者については、一見格好よさそうですが、自分の見たものや理解できることしか肯定できないなんて、想像力の欠如したかわいそうな「ヒト(動物としての)」に思えてなりません。
後者については、この点で他の宗教の笑いものなることがあることを知るべきでしょう。死んだら何もなくなるということは、どうせ死んだらおしまいなんだから「責任のある生き方」をしなくてもよいという考えに通じかねないからです。
一方、「あの世」の存在を担保する理由として「臨死体験」を挙げる方もいらっしゃいます。
死にかけたときに、三途の川が見えて、その向こうにはお花畑があり、死んだおじいちゃんが手招きしてた、とかいうものです。
しかし、これだけでは証明にならないのかな、と思います。
というのも死にあたっては、死に対する恐怖や痛みを緩和する一種の麻薬成分ともいえるエンドルフィンが分泌されることが知られています。また近年では、別の成分の存在も主張されているようです。
そして、以前は前述のような「三途の川」パターンが多かったのに対して、最近では光に包まれた、とか、真っ白な世界にいた、という「無」のパターンが増えているようです。
このことからも、結局のところ、知識として持っている「あの世のイメージ」が幻覚によって顕在化しただけとも考えられるからです(昔の人と異なり、今の人は三途の川とかピンとこない人が多いでしょうから)。
タイトルのパスカルとは「人間は考える葦である」でお馴染みのあの人です。
彼は、著書『パンセ』の中で、神の国が存在するか否か賭けをするとしたら、「存在する」方に賭けるべきであるとしています。理由は以下の通りです。
「なぜなら、神が存在するように生きたとしたら、神が実在したときに、私たちは天国を得ることになる。
もし神が実在しないのだったとしても、何も失うものはない。
逆に、もし神が実在しないかのように生きて、実は本当に神が存在するのなら、私たちは地獄と罰を得たことになり、天国とその無上の幸福を失ったことになるからだ。」
信仰に関することを、合理性や有利性という尺度のはかりにかけて判断するのはふさわしくないのかもしれませんが、一理あるように思います。
亡くなって旅立つときに、仏様の世界に歓迎されるように、いまを正しく生きる。
亡くなった方々が仏様の世界で心安らかにに過ごせるように願って、祈る。
わざわざ、千年以上我が国の風土に根付いてきた仏の世界を否定して暮らすよりも、心豊かに過ごすことができるように思いませんか。
※ 寺報「西山寺通信」令和2年12月号の内容を加筆修正したものです。