不妄語

 十善戒の続きです。

 前回までは、不殺生、不偸盗、不邪淫という身すなわち行動面での戒律でした。

 今回からは言葉に関する戒律が四つ続きます。

 まず最初にお話しするのが、不妄語戒です。

 

 不妄語戒とは簡単に言うと、噓をつくなということです。

 中には、「嘘も方便」なんだから、全ての嘘を否定するのはやりすぎじゃないかと思う方もいらっしゃるでしょう。リップサービス的な嘘はむしろ人間関係の潤滑油になっていると主張する方もいらっしゃるかもしれません。

 

 ある上座部のお坊さんが、そのような方の質問に答える形で、不妄語戒に反する嘘の要件をあげておられました。犯罪における構成要件のようなものですね。それはつぎのようなものです。

① 相手をだまそうとする意思があること

② 事実に反することを知っていたこと

③ 相手がだまされたこと

 これなら、社交辞令的に「いつ見てもお美しいですね」とか「その服、お似合いですね」くらいは許される余地があるかもしれませんね。

 

 少し気になるのは②の要件です。

 一般人が少し呟いただけでも、あっという間に情報が拡散する昨今においては「事実に反することを知っている」だけでは足りないのではないでしょうか。

 

 自分が小学生のときのことです。

 自分は地元の小学校ではなく、少し離れた小学校に通っていました。

 すると近所では、「あの子は頭が悪いので、近くの小学校では恥ずかしいから、わざわざ遠くの学校に通わせている」という噂が流れていたそうです。

 ある日、下校途中で井戸端会議中のおばさんに「学校では何の科目が好き?」と聞かれたので、元気いっぱいに「体育!」と答えところ、「ああ、やっぱりね」といった感じの哀れみに満ちた目で見られてしまいました。

 母親にも「なんで国語とか算数って言わなかったの」と怒られましたが、当時の自分は「だって、得意な科目は?って聞かれなかったんだもん。」とのたまったそうです(本人は覚えていません)。

 

 これくらいのデマなら笑い話ですが、洒落にならないこともあります。

 今回のコロナ禍でも納豆が効くとか、37度のお湯が効くとかいう話が、広まっていました。自分の知り合いにも、ご親切に「お湯が効くよ」というメールが回ってきたそうです。37度のお湯が効くなら、そもそも体温でウィルスは死滅するでしょうに。アメリカでは、相変わらず漂白剤を飲めば治ると信じている人がいるとも聞きます。

 

 昔と異なり、情報を簡単に大量に手に入れることが出来るようになった一方で、何が正しくて有用なのかを取捨選択する手間と忍耐が必要になったように思います。かつては全幅の信頼を置いても良かったであろう新聞のような紙媒体であっても確実ではありませんから。

 

 先日、戒律講習会に出たときに、主催者から配布されたある資料について、伝授阿闍梨さんが注文をつけておられました。

 その資料というのは、昔、ある方が作ったものを基にしたものなのですが、絶版になっていることもあり、主催者が分かりやすく解説をつけて製本してくださったものでした。

 それについて、先生は一次資料が何であったのかを書いていないことに苦言を呈しておられたのです。

 知的財産権がどうのこうのということではありません。このようなことがあると、後の人が大元の根拠を遡ることが出来なくなることを問題とされたわけです。

 

 自分たちの行や修法というものは、オリジナルでやっているわけではありません。根拠とされる経典などの「儀軌」にもとづいています。そこに書かれていない細かな部分が口伝となってしまうこともあり、大いなる「伝言ゲーム」となり、いろんな流に分かれてしまってますが、そこには、誰から誰にどのように伝わったということが裏付けとして存在しています。

 

 話はそれてしまいましたが、真実と確信できないようなことを、自分で少しも確かめもせずに伝えるのは「不妄語戒」に反するように思います。

 

 先に述べましたが、言葉に関する戒律は四つもあります。行動に関するものよりも多いわけです。

 人間に与えられた特別なツールである言葉を、お釈迦さまも「口に生えた斧」とたとえています。使い方を誤ると、他人も自分も傷つけてしまう道具というわけです。

 

 不妄語戒とは、自分の言葉に責任を持つ、というくらいに広くとらえるべきではないでしょうか。

 

※ 令和三年一月の薬師護摩での法話に加筆修正したものです。