御影供に毎年、同じ話ばかりでは退屈されると思います。
そこで、今年からお大師様のエピソードをお話してきたいと思います。
あとで、広間にかけてある「弘法大師行状絵図」で確認していただければ、と思いますが、「捨身誓願」という話です。
お大師様が七歳の時、まだ「真魚(まお)」ちゃんと呼ばれていた頃のことです。近くの捨身ガ嶽に登り「私は大きくなりましたら、世の中の困ってる人々をお救いしたい。私にれだけの力があるならば、命をながらえさせてください。もしそうでなければ、この命を捧げます。」と仏さまに祈り、谷底めがけてとびおりました。すると、どこからともなく美しい音楽とともに天女が現われ、しっかりと受け止められました。
かなり無茶をするお子様だったようですが、お釈迦様も似たようなことをされています。もっとも、お釈迦様の前世の話です。
お釈迦様が「雪山童子」として真実の法を求めて修業をしていたときのことです。これは名前ではありません。「雪山」というのはヒマラヤのことだといわれています。要は人里離れた雪山の奥でひたすら覚りを求めて修業していた子供のことです。頑張っていますが、なかなか覚りに至りません。
すると、どこからか声が聞こえます。耳を澄ませて聞いてみますと
諸行無常 是生滅法
と言っています。諸行無常は「平家物語」の冒頭でもおなじみですね。この世のあらゆるものは変わらぬものはない。生じたものはいつかは滅してしまうというのが真理である、という意味です。
雪山童子は、これこそ求めていた真実の教えだ、と喜び、声の主のもとへ駆けつけると、そこには鬼がいました。普通でしたら、逃げ出すところですが、真理に近づきたい童子は、是非続きを聞かせてくれるように懇願します。
しかし、そこは鬼のことです。キャラ通りのリアクションをしてくれます。「お前を食わせてくれるなら、聞かせてやる。」というのです。常識的には、交渉決裂となるところですが、童子は承諾します。すると鬼は続きを聞かせます。
生滅滅已 寂滅為楽
生滅の道理に反する執着を無くしたときに、心の平穏が得られ覚りに至るという意味です。
これを聞いた童子は、せっかくの教えが失われてはいけないと思い、近くの岩に刻むと、満足して山頂から身を投げて、鬼に捧げます。すると、鬼は本来の姿である帝釈天となり、童子を受け止めます。そして、いずれ仏陀となり人々を救う存在になることを告げ、礼拝されたという話です。
お釈迦様が前世で命がけで手に入れたこの教えは「雪山偈」とか「無常偈」とか呼ばれています。覚えられなくても大丈夫です。みなさん、もう知っていますから。
色は匂へど 散りぬるを
わが世誰そ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
「有為の奥山」とは迷いの世界。無常を知り、執着を除くことで、迷いの世界を抜けて、覚りに至るという同じ内容です。
この「いろは歌」の作者には、色々な説があります。その中の一人に弘法大師が挙げられています。自分は立場的にお大師様が作られました、と言い切るべきかもしれません。真言宗では「宗歌」にもなっています。
よく、密教は仏教ではない、なんて言う方もおられますが、やはり仏教の範疇であることに間違いはないと思います。むしろ、いろは歌のように、日本人に分かりやすくアレンジしてくださったのだと感じます。今日の御影供、お大師様を通じて仏教を学ぶ機会になれば幸いです。
※ 令和6年3月 正御影供での法話に加筆修正したものです。