見えないとダメですか

 ネット記事で少し前に読んだものなので正確ではないですが、こんな話がありました。

 ある方が新築パーティーを開かれたそうです。会社関係や友人やらを呼んでワイワイやっていたそうなのですが、ある「見える」方が、調度品の一つを指して大騒ぎしたそうです。

 「この鎧は、合戦で多くの血を吸っていて、怨念がこもっている。このようなものを家に置いては・・・・・。」

 

 その鎧というのは、この家の主が数年前に作ってもらったものだったそうです。

その方曰く、

 「自分、この数年で、なんか合戦に参加したっけ?」

 そして、「見える」のもいいけど、場の空気を「読む」力もつけてほしいと結んでおられました。

 

 いつも言っていますが、自分も「見える」人がいることを否定していません。むしろ、そういう力を持つ方がいることも理解しているつもりです。

 

 むしろ、自分にそのような力がないことを不安に思っていた時期もありました。

 特に、真言宗の僧侶になろうと決心した際には、そのような力が無くてもやっていけるのだろうか確信が持てませんでした。

 

 よく分からないままに、最初の修業である「四度加行」に入りました。

 先日書いたように、仏さまを眼前にお招きして、あれやこれやとご供養します。非常に楽しいのですが、仏さまの姿ははっきりと「見え」てはいませんでした。

 そのような状態で、仏さまのために座を用意して、車でお迎えして、足を洗い、音楽を奏でて、供物を捧げる・・・・。おままごとと変わらないのではないだろうかと不安で仕方ありませんでした。

 

 その後、様々な伝授を受ける中でヒントであったり、救いを得られることになります。

 

 まずは、お大師様ゆかりの久米寺さんで受けた理趣経法の伝授でのことです。伝授阿闍梨様はこうおっしゃいました。

 「加行のときなんか、仏さまの姿なんか見えない中で、とにかく次第通りにやることだけに必死だったと思います。今だって、なかなかはっきりと姿が見えないかもしれません。でも、そこに仏様がいらっしゃると思って、一生懸命にご供養することが大切です。たった一枚の樒の葉(※樒の葉を塗香や華鬘に見立てて供養します)であっても、ただの葉っぱではなく、仏さまへの大事な供物だと思うから、なるべくきれいな葉を選んで、洗ってお供えしているわけです。ただし、見ることをあきらめてはいけませんよ。」

 救われました。自分が加行であったり、日々の行法でしていることが無意味なおままごとではない、と言っていただけたようでした。

 

 その後は、どうしたら仏さまを「見て」行ができるようになるかを試行錯誤する日々でした。なんとなくうまくいったと感じるときもあれば、まったくダメなときもあります。規則性もはっきりしません。少しずつ焦っていました。

 

 そんなときに、阿字観瞑想の講習で、大阿様からこのように言われました。

 「観想(相)は想像ではありません。想像は自分が作り出すものですから、想像をやめた瞬間に消滅してしまいます。(仏様は)そういうものではありません。仏さまが実際にいらっしゃるのを見るのが観想です。」

 

 お寺にいますと、「見える」系の方との接点が多いです。まったく見えないという嘘つきの方はいらっしゃらないとは思うのですが、自分が見たいものを見ているだけの方もいらっしゃるように感じます。特に、こちらが出した情報を聞いた瞬間に、饒舌に語りだす方はそんな感じでしょうか。

 一方、葬儀や回忌法要なんかで、小さい子供が「そこにおじいちゃんが来てた。」というケースのほうが、先入観に毒されていない分、本当に見えているのかな、と思っています。

 

 それでもやはり、はっきり見えない自分が、人の命がかかっているような深刻な祈願を受けても良いのだろうかと思い悩むことはありました。

 

 先日、祈祷に関しては全国区の知名度と法力をお持ちの行者さんの講習会を受けてきました。その際に、このようなお話がありました。

 

 「私自身には何の神通力もありませんよ。だから一生懸命拝んでるんです。」

意外でした。そして、このようにも付け加えられました。

 

 「ただ、仏さまに願いが届いたな、というのは分かりますよ。むしろ、それが感じられないようでは、行者としては失格ですし、修練が足りないです。」

 

 この言葉には、すごく納得するとともに、大いに安心もしました。

 自分なんかでも、はっきりと姿は見えなくても、仏さまが来てくれているな、願いを聞いてくださっているな、というのは感じることができるようになりました。

 葬儀であったら、仏さまたちがいらしてるな、亡くなった方が喜んでおられるな、というのを感じながら引導作法をしています。

 

 ここまで、自分の話ばかりしてきましたが、これは坊さんに限ったことではないと思います。ただ、僧侶は修業を通じて、「見る」というか「見える」「感じる」ことができる方法に長けているだけだと思います。

 

 たとえば、今日の護摩にしても、皆さんが、炎を前にして、一心に真言やお経を唱えて、雑念を取り除くことで、仏さまを近くに感じることができる効果があるでしょう。

 

 さらに一歩進めて、在家の方でも、目の前の仏さまを感じるだけではなく、自分の心にも仏を見出したり、自分と仏さまが一体化する体験ができたりするのが密教瞑想だったりします。

 

 神通力なんか無くたって、密教は面白いというところを伝えていければ、と思います。

 

※ 令和5年11月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

 

 

 

「祈り」となるためには

 先日、尊敬するご住職の法話を拝聴する機会がありました。その中でこのような話がありました。

「神仏の前で一生懸命お願いをするのは『祈り』ではありません。ただのお願いです。感謝の気持ちが伴って初めて『祈り』といえます。」

      

 以前、後輩の僧侶が知り合いの方の病気平癒の祈願をしようと思い、先輩のところに相談に行ったそうです。すると

「あんたが拝んでも験は出ないよ。」

とはっきり言われたそうです。

 言われた本人は、プンプンでしたが、先輩が言ったのは意地悪でもなんでもなく、理由があってのことです。

 

 それは、普段、行法をしていない僧侶が祈願をしても功を奏さない、と言われているからです。

 先輩は、その後輩が、常日頃ちゃんと拝んでいないのを良く知っていたのです。

 

 黙って陰で祈願をするのであればそれで良いのかもしれませんが、僧侶が、相手に拝んだことを伝え、祈願札でも渡すとすれば、相手の方は恩に感じたり、過度に期待したりするでしょう。それに値する祈願がなされたものでないとしても・・・。

 さらにお布施までいただいてしまっては、詐欺と変わらないでしょう。

 

 ですから、祈願をするためには、その裏付けが必要です。それが日々の行法です。そこで、仏さまたちに感謝して供養をして「仲良く」しているからこそ、ここ一番でお願いできる、という自信になっているのです。

 

 祈願だけではなく、葬儀のような「供養」でも同様です。

 

 最近では葬儀に初七日が組み込まれているのは一般的ですが、自分は式中四十九日なんていうものもやりました。しかも一日葬です。持ち時間四十分で葬儀+初七日+四十九日です。当然いつもとは異なり「ダイジェスト版」での葬儀です。

 日々の行法をやっていなければ、怖くて引き受けられませんでした。

 

 祈願や供養が成就するためには、日々の感謝が伴ってこそ、ということです。

     

 長々と書いてきましたが、「願い」を「祈り」にするには「感謝」を忘れなければよいのです。

 一日単位では「朝に礼拝 夕に感謝」です。

 お経を上げる時間が無いので無理、なんて思わないでください。

 仏壇の中にいらっしゃるのは、長らく皆さんを見守ってきたご本尊様と、先祖という、皆さんを「えこひいき」してくれる特別な仏さまです。

 朝は、「行ってきます」、夕には「一日無事に終わりました。ありがとうございます。」と心を込めて手を合わせるだけでも立派な「祈り」でしょう。

 

 一年単位では初詣や元朝参りで一年の幸せを願うばかりではなく、お礼参りがあってこその「祈り」だと思います。

 年末に向け忙しい時期にはなりますが、一年間お世話になった寺社にお参りするのはいかがでしょうか。

 特別な願いが叶ったのであれば、ことさらにお礼参りを忘れないようにしたいものです。

 

 また、一年間頑張ってくれたお守りやお札も、ため込んでしまうことなく、感謝の気持ちを込めてお返しするようにしたいものです。ゲームではないので、同じ社寺の御守やお札を複数持っていても、覚醒したり、「凸させ」たりできませんよ。

 

 祈る姿と願う姿は外見的には区別がつかないかもしれませんが、まったく異なるものです。いえ、よく見れば、区別がつきますね。

 

 一年に一度、下手したら一生に一度しかお参りしないお寺や神社で、時間をかけてたっばり「願い事」をしている方の姿と、毎朝、通勤や通学で通りかかる神社や寺の前で、「行ってきます」「ただいま」と、簡単でも心のこもった「祈り」をされている方の姿とでは、後者が断然尊く映りますね。

 神仏ならなおさらお見通しでしょう。

 

 量より質の、ちゃんとした「祈り」を心がけたいものです。

 

※ 寺報「西山寺通信」令和5年11月号の内容に加筆修正したものです。

脇道を見る余裕を ~ 本当のタイパ

 今年も残り少なくなってきました。

 徐々に今年を振り返る、といった特集が組まれるようになってきますね。

 その中に、流行語大賞や新語大賞でしょうかなんてものもありますね。

 ところで、昨年の新語大賞の言葉を覚えておられますか。

 「タイパ」、タイムパフォーマンスでした。コストパフォーマンスの時間版といったところで、いかに効率よく時間を活用するかという「時間対効果」のことです。

 そんな難しいことを考えて行動していません、と思う方もおられるかもしれませんが、動画の倍速再生なんかもそれに当てはまりますので、無縁な方はいないでしょう。

 今日は「タイパ」に関したお話をしたいと思います。

 

 フェイスブックでも報告していますが、色々なところに「伝授」を受けに行っています。

 阿闍梨になるために高野山で「加行」という修業はしたのですが、真言宗でいう「阿闍梨」には住職資格くらいの意味しかなく、ようやく本格的な修業ができるという「資格」を得たにすぎません。

 

 実際、加行を終えただけでは、今日の薬師護摩はできません。そんなことは習わないです。正月の星まつりなんかはもちろんのことです。

 

 ですから、色々なニーズに応えるべく色々な講習や伝授を受けに行かせていただいています。もっとも、時間とお金の制約があるので、これぞというものに限ってとなりますが。

 

 以前に、後輩が、とある伝授に行きました。その伝授は、自分も行きたかったものでしたが、都合がつかずに諦めたものでした。そこで、感想を聞いてみました。すると、

 「あの先生、雑談ばかり。時間がもったいなかった。」

とのことでした。

 自分は、その先生の伝授が好きなので、意外な返事に驚き、やはりその伝授を受けられた先輩に、今回の伝授がいつもと何か違ったのか、と尋ねましたが、

 「いつもと同じだったよ。自分は、そういった伝授と直接関係ない話の方が、色々と役に立つと思うんだけどな。残念だな。」

と仰っていました。

 

 自分も同じ考えです。

 伝授をしてくださる先生方は、行者としては超一流の方々です。自分も、伝授内容以外の話のおかげで、迷いが無くなったり、ヒントを得たりしたことが少なくありません。また、別の機会にお話しすることもあるでしょうが・・・。

 

 せっかくの「お宝」を前に、雑談と切って捨てて、「時間の無駄」と文句を言う人こそが、タイパという点では、時間を無駄遣いしているのではないでしょうか。

 

「医王の目には途に触れてみな薬なり、解宝の人は鉱石を宝と見る」

 これは、お大師様の言葉です。お医者さんの目で見れば、道端の雑草も薬草と映り、宝石がに詳しい人が見れば、ただの石ころも宝石に見えるという意味です。

 

 薬草を見分ける目をもっているかどうか以前に、道端の草花に目も向けない人が多くなっているのではないでしょうか。

 

 私たちが一生の中で、見たり聞いたりできるものには限りがあります。この世のすべてのものが神仏が作ったものであるならば、無駄なものなどある訳はありません。

 一つたりとも、見逃すまい、聞き逃すまい、と思うことこそ、一生という時間の「タイパ」では大切ではないでしょうか。

 

 まずは夜空を見上げて月の美しさに感動してみる、野に咲く花を愛でてみる、鳥の鳴き声に耳を澄ます。

 そんな心の余裕を持つことが、効率的ではないかもしれないですが、時間を「豊かに」使うことなのは間違いないのだ思います。

 

※ 令和5年10月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

修法は辛いものであってはダメ

 自分も教えていただいたことのある高名な僧侶の方がこんなことを書いておられました。

「人のために祈って、施主さんが救われるのはもちろんだが、代わりに自分が疲れてしまうような人は、行者に向いていない。」

 

 自分が、高野山で、「加行」という修業の途中で、伝授阿闍梨様より

「どうですか?」

と声をかけていただいた際

 「楽しいです。おかしいでしょうか?」

とお答えしました。

 大阿様は、何もおっしゃいませんでしたが、笑顔だったように思います。

 

 高野山の加行は約100日、外界とは連絡が取れません。昔は、加行が終わって出てきたら、戦争が終わっていたなんてこともあったそうです。今でも、加行期間中は親の葬儀にも出れません。正確には、出ても良いのですが、その場合、最初からやり直しです。

 また基本的には、一日中、修法や勤行をしています。

 特に、最後の護摩加行にはいると、慣れていないこともありますが、一座3時間前後かかるものを、日に3座ずつ。それ以外にも朝夕の勤行もありますから、睡眠時間は3時間くらいです。

 

 身体的にはきついのですが、楽しかったのはウソではありません。

 今までは、仏さまの前で手を合わせて、せいぜいその仏様に関するお経や真言をあげるくらいしか知らなかったわけです。

 しかし、行を進めていく中で、より丁寧な拝み方を学んでいくのです。

 詳しくは申し上げることができませんが、分かりやすく言うと、VIPを自宅に招待して、全力でおもてなしをするかのように、仏さまを供養する作法を学ぶのです。

 

 今日の護摩もそうです。

 前にも申し上げましたが、護摩は皆さんと仏様とのお食事会のようなものです。炉の口は仏さまの口です。どんどんご馳走をふるまっていくのが護摩です。

 仏さまとテーブルを一緒にするわけですから、参加する皆様にもそれなりのドレスコードが必要です。

 ですから、最初に洒水加持をして浄めて、さらには百八本の護摩木により煩悩を焼き尽くしています。

 おなか一杯になって満足された仏さまに、皆さんの願いを書いた添え護摩木をメッセージとしてお届けしているわけです。

 視覚的にもわかりやすいですよね。楽しくないですか。

 

 これは、祈願だけでなく葬儀のような「しんみりした」状況でも同様です。

 葬儀は、仏さまの世界に「帰る」作法です。

 導師は、自分が阿闍梨になったときの伝法灌頂と同様の作法もしています。要は自分の受けたすべてを「お土産」にして旅立っていただきます。

 悲しいお別れではあるのですが、感謝の気持ちで送り出す方々、その姿を嬉しそうに見ている故人、そして、ねぎらうように迎えに来てくださる仏さまたち、そのすべての方たちの「晴れ」の旅立ちの宴です。

 故人様が、大切な方たちに感謝されて送り出されたことで、自分が生きてやってきたことは間違いないものであったと安心して、誇らしくされている姿が眼前に浮かぶと、自分も嬉しくなります。

 

 長いお経や真言を必死で唱えることよりも大切なことがあります。

 目の前の仏様を観じることです。仏さまになったご先祖も同様です。

 こんなに近くにいらっしゃること。見守り続けてくださることを感じることができると、嬉しくて、楽しくないでしょうか。

 

 今日の薬師護摩で、お薬師様を近くに感じて、楽しんでいただけたとしたら幸いです。

 

※ 令和5年9月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

御礼肥え ~感謝で大きな花を咲かす

 秋になり、夏に咲き誇ってくれた蓮たちもほとんどが枯れてしまいました。

 枯れてしまったから世話は終わりというわけではなくて、今は「御礼肥え」の時期です。

 いらしている中には、農家の方もいらっしゃるので、自分が説明するのも気恥しいですが、御礼肥えとは、蓮に限らず、花が咲いた後や、実を収穫した後に肥料をあげることです。

 これをすることで、花や実をつけることで疲れた植物の疲労回復を図ります。これを怠ると、翌年は花や実をつけてくれません。

 

 「御礼肥え」という表現も本当に素敵だと思います。

 

 以前にも申し上げましたが、蓮は仏教的な意味をたくさん含む植物です。

一番有名なのは「泥中不染」すなわち、泥の穢れに染まらずに美しく咲く蓮が、自分たちの生き方の理想とするものです。

 

 そして、この「御礼肥え」も蓮だけに当てはまることではないですが、仏教的な格言が含まれているように思います。

 

 寺や神社で一生懸命に拝む方は多いです。賽銭箱にわずかばかりの小銭を入れて、元を取らないと損とばかりに拝んでいる方も多いでしょう。

 しかし、願うときには必死でも、日々の感謝のために手を合わせに来る方は少ないのではないでしょうか。

 

 よく仏教の根本は何か、というと「慈悲」を挙げることがあります。自分は「感謝」も挙げられると思います。

 

 日々、幸せなことがあった場合はもちろん、何事もなく過ごすことができたならば、「御礼肥え」よろしく、感謝をしなくてはいけません。利に訴えるようでいやらしい様に聞こえるかもしれませんが、それが花を咲かせ続けるコツです。

 

 難しいのは、うまくいかなかいことが続いている場合です。

 花も咲いていないのに「御礼」なんて、と思いがちです。

 下手すると「神も仏もあるものか」とそっぽを向いてしまうかもしれません。

 

 ここで、ウチで咲いた蓮の話に戻りますが、今年一番大きな花をつけたのは「原始蓮」という品種です。この護摩堂に一番近いとこで咲いていた9株です。

 実は、この品種は、昨年1株を手に入れて育てたのですが、花が咲かなかった子たちです。

 そして、3月に株分けしようとしたところ、土の中で9株もとれるほど、蓮根が育っていたのです。そして、その結果が今年の夏のあの結果です。

 

 先日、受講してきた宿曜という密教占星術の先生もこうおっしゃっていました。

 「星まわりの悪い時こそ、自分を鍛えて大きくするチャンスです。」

 

 日々、神仏をはじめあらゆる力に「御礼肥え」。

 たとえ、まだ花が咲かなくとも、いつかより多く大きな花を咲かせるために、感謝の気持ちを持ち続けていきたいものです。

 

※ 令和5年9月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

盲亀浮木のおしえ

 先日、三回忌をした方たちのお話です。

 故人様の息子さんが俳優さんなのですが、最近では演出や監督もされているとのこと。

 そして、「もうきふぼく」という舞台の演出をされたとのことでした。

 ひらがな表記なのは、志賀直哉原作の作品と区別するためだったのかもしれませんが、漢字で書くと「盲亀浮木」です。

 

 「盲亀浮木」とは『 譬喩経』に出てくる仏教説話です。

 大海に目の見えない年老いた亀がいます。

 その亀は100年に一度だけ海面に顔を出します。

 そのタイミングで、海面を漂っている木の板に空いた穴にすぽっと顔がはまるというのです。

 

 お釈迦様は、弟子の阿難さんに「そんなことは可能だろうか」と尋ねます。阿難さんは「そんなことは不可能です。」と答えます。

 それに対してお釈迦様は「人間に生まれるということは、それくらい、いやそれ以上にありがたいことなのだ。」とおっしゃったのです。

 

 もちろん、人に生まれることの有難さに感謝して、無駄にすることなく、しっかり生きなさいというたとえです。

      

 その方は、お母様の死によって、色々と考えることがあり、このような題材の作品を作ったとおっしゃっていました。

 

 せっかくいただいた私たちの命なのですが、もれなく「苦」がついてきます。有名なところでは「四苦八苦」です。

 

 「四苦」とは、生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみです。これらに大切な方と別れる苦しみである愛別離苦、逆に会いたくもない奴と顔を合わさないといけない怨憎会苦のほか求不得苦、五蘊盛苦の四つを加えて「八苦」です。

 これらは、残念ながら誰もが避けることのできないものです。そして、避けることができないものであるならば、それを糧にすることができるかどうかが大切なのだと思います。

 年を取ったから分かること、病気になったから分かること、身近な方との別れを経験したから分かること、‥等があるはずです。

 

 残念ながら、カルトと異なり、仏教はなんでも思い通りになりますよ、などと耳当たりの良いことは言いません。

 しかし、苦難に対処する智慧とそれを糧として成長できる智慧を与えてくれるのが、正しい宗教なのだと思います。

 

 「神は越えられない試練を与えない。」

 素敵な言葉です。

 自分自身も「仏さまは越えられない試練を与えない。」と信じています。

 しかし、自身が体験したことがない、想像もつかない試練に直面している方に向かって、この言葉をかける勇気はありません。

 ただ、そのような方の痛み、悲しみをほんのわずかでも共有して、寄り添うことができる人でありたいと思います。

 

 寺報「西山寺通信」令和5年8月号の内容に加筆修正したものです。

施餓鬼の話 2023

毎年、同じような話になってしまいますが、ご容赦ください。

 

法要の中で、ご先祖さん方の供養を祈願する部分に気づかれた方は多いと思います。

そして、それと合わせて皆様の福徳を祈願していたことにも気づかれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 お盆に合わせての施餓鬼法要なんだから、先祖供養だけしっかりやってくれよ。
そんなに欲張るなよ、と思う方もいらっしゃるかもしれません。

 

 しかし、これこそが真言宗の施餓鬼なのです。

 外をご覧ください。

 先週、皆さんにきれいに草刈りをしていただきました。本当にありがとうございました。しかし、もう小さな雑草が続々と顔を出しています。

 

 いくら刈り取っても、次から次へと生えてくる雑草。

 私たちの煩悩、欲というものはこのようなものです。

 一時的に、欲を断ち切って、心静かになったとしても、覚りきった方でもないかぎり、次の瞬間には欲が芽生えてきます。

 

 一般的な仏教では、その都度、その欲を摘み取りなさい、というでしょう。

 

 しかし、お大師様は違います。

 そもそも欲というものを否定しません。

 ただ、欲にも「小欲」と「大欲」があり、推奨されるのは「大欲」です。

 

 一万円欲しいと願うのが「小欲」で、一億欲しいと願うのが「大欲」というわけではありません。

 自分だけの幸せを願うのが「小欲」で、みんなの幸せを願うのが「大欲」です。

 そもそも、自分の幸せを考えない人に、他人の幸せは分からないでしょう。

 

 さきほどの話に戻します。

 雑草は「小欲」です。

 それらをいちいち抜かなくてもいいというのです。

 

 代わりに「大欲」とい大きな木を育てて、枝いっぱいに茂らせなさい、というのです。

 すると、日が当たらない下草の雑草は勝手に枯れてしまうわけです。

 それどころか、枯れた雑草は「大欲」の大木の栄養にすらなるのです。

 

 この施餓鬼では、みなさんはご先祖様のご供養を祈願してくださいました。

 身内とはいえ、自分以外の幸せを願ってくださいました。

 生きている親なら、機嫌を取ればお小遣いがもらえるかもしれませんが、先祖供養は見返りを求めない「大欲」の行動です。

 

 さらには、縁もゆかりもない餓鬼さんたちにもお布施をして、ご供養してくださいました。これはもっとより大きな「大欲」です。

 

 この餓鬼さんたちは、皆さんのご先祖が仏さまの世界に帰られるときには、一緒に帰っていきます。餓鬼道から脱出できるのです。

 そういう意味では、大げさかもしれませんが、成仏のお手伝いをしてあげたのです。

 だからこそ、施餓鬼の功徳は大きいといわれるのです。

 

 苦しみから抜け出して、仏となった餓鬼さんたちは、感謝して皆さんに功徳をもたらしてくれます。

 そして、そのことは、餓鬼さんたちを連れて「里帰り」してきた皆さんのご先祖さんにとって最高の喜びです。

 

 商売でいう「三方良し」みたいで、世俗的に感じるかもしれませんが、人に生まれて、幸せを求めない道理はないでしょう。

 

 今日は、「大欲」という大樹にたくさんの肥料をまいてくださいましてありがとうございました。

 

※ 令和5年 施餓鬼法要での法話に加筆修正したものです。