信仰と依存

 以前、先達をしていたときのことです。

お客様から、「落とした数珠を拾うときの真言を教えてください。」と言われました。

自分は、そのような真言を知りません。

別の日には、他のお客様からも同じ質問を受けました。

この質問を受けたのは、自分だけではなかったようで、あるとき先達同士の会合でこのことが議題に上がりました。

先達会には、自分以外にも僧侶の方がたくさん居られましたが、みなさんそのような真言は知らないということでした。

そもそも、誰が言ったのかということになり、ある先達さんが発信元と分かりました。

そして

「あなた、その真言にはなんか根拠があるのか?」

「はい、高野山のお坊さんから聞きました」

高野山のどこのお寺や?」

「いえ、高野山の道で会ったお坊さんです」

「その人って、本当にお坊さんなんか?法衣とか袈裟とかつけてたんか?」

「いえ、でも坊主頭でした。」

根拠は、高野山内を歩いていた、僧侶かどうかも分からない坊主頭のおっさんだったわけです。

 もしかしたら、私が知らないだけで、そのような真言があるのかも知れません。教えてくれた方もちゃんとした僧侶の方だったのかも知れません。問題は、その方の言葉を鵜呑みにして、裏付けも取らずに広めてしまった無責任さです。

 結局、結論として、数珠を落としたら、さっさと拾いましょう、ということになりました。

 いま、コロナに関しても、色々なデマが流れています。少し考えれば、おかしいと思えるような話を、自分で確認する手間を省き、無責任にひろめてしまっている結果です。

 

 ところで、あるお坊さんが大学で講演をした際に、学生から「信仰と依存は何が違うのか?」という質問を受けたそうです。

 自分は、仏教とは杖であったり、地図のようなものであると思います。

 杖を持っていても、地図を持っていても、役には立ちますが、それだけで目的地に着くことはできません。結局は、自分の足で歩くしかないのです。

 なかには、宗教なんぞ、弱い者が頼るものだから、自分には必要ないという方も居られます。そういう「強い方」はそれでよろしいでしょう。ただ、多くの方には心の支えとなる杖のようなものが必要でしょうし、正しく生きる道しるべとして宗教が役に立つはずです。

 ただ、さきほども述べたように、仏教は、信じるだけで救われるものではありません。

なかには、「ドア to ドア」で、何もしなくても悟りの世界に届けてくれることを謳うものもあるかもしれませんが、少し考えれば、そんなに上手い話があるはずがありません。

 そういう意味では、自分で考え、汗を流すか否かが、信仰と依存の相違点なのではないでしょうか。

 今日の護摩で、仏様を近くに感じていただき、明日から強く歩いていくための力を得られたと感じていただけたとしたら幸いです。

 

※ 3月の薬師護摩法話に加筆修正したものです