高野山に住んでいる方から教えてもらったのですが、山内に人力車が走っているそうです。もっとも、観光地で見かける大手企業の運営ではなく、山内でゲストハウスをやっている方が企画したもののようです。
人力車と言えば、知り合いのお坊さんからこんな話を聞きました。
団体参拝のお客さんを連れて浅草寺をお参りしていたときのことです。
近くにいた人力車の車夫さんが、お客さんにこんなことを話しているのが聞こえてきたそうです。
「普通の人は、観音様を拝むときは『南無観世音菩薩』って言うんですよ。でも俺らプロになると『オン アロリキャ ソワカ』って言うんですよ・・云々」
そのお坊さんは、「プロってなんやねん。」とツッコみたいのを我慢して聞いていたそうです。
この話を聞いてこんな昔話を思い出しました。「念仏婆さん」というものです。
地方によって様々なバリエーションがあるようですが、そのうちの一つを紹介します。
普段から「南無阿弥陀仏」を熱心に唱えるおばあさんは、みんなから「念仏ばあさん」と呼ばれ、尊敬されていました。
そのおばあさんが亡くなったときには、誰もがが極楽に行ったことを疑いませんでした。
おばあさんも自信満々で、閻魔さんを前にして、つづら一杯につめこんだ、今までに唱えた念仏を誇らしげに見せます(風呂敷だったり荷車というパターンもあります)。
閻魔さんは「よく、これだけの念仏を唱えたものだな。えらい、えらい。」と褒め、つづらの中を調べます。おばあさんは極楽間違いなしと思って待つのですが、閻魔さんの顔がみるみる曇っていきます。どうしたのかと思って尋ねると
「おばあさん。この念仏も、この念仏も、この念仏も、心のこもっていない『空念仏』ばかりだ。これじゃ、極楽に行かせてやれない。」と言います(閻魔さんが空念仏を選り分ける方法としてはふるいにかけるとか、うちわで吹き飛ばすパターンがあるようです)。
どんどんつづらの中身が無くなっていき、おばあさんはだんだんと不安になります。
すると、最後の一つの念仏を手にした閻魔さんが
「これだけは、心のこもった念仏だ。ああ、これはひどい雷が鳴ったとき、恐怖で、心から助けてほしいと唱えた念仏だな。」と言ったそうです(雷以外には地震であったり、最期の瞬間に「助かりたい」と願った念仏、というパターンがあるようです)。
そして、おばあさんの行き先は・・・
これも2パターンあるようです。
バッドエンドは
閻魔さんが、「自分のことしか考えないような奴はけしからん。」といって地獄行きにしたというものです。
グッドエンドは
願いはどうであれ、一度でも、必死で念仏を唱えたことにより極楽へ行くことができたというものです。
難しい真言を唱えることよりも、長い経を唱えることよりも、たとえ一瞬でも心を込めた祈りを捧げることの方が遥かに難しいです。
たとえば、亡くなった方のご供養の場合には、まずは目を閉じて、その方のお顔と声を思い浮かべてください。
次に、仏様に対する場合です。
仏像や仏画が目の前にある場合は、比較的心を向けやすいでしょう。
よく、お寺で仏像を前にして、そそくさとお賽銭を納めて、慌ただしく手を合わせている方もいらっしゃいますが、もったいなあと思います。
まるで、お賽銭が、願い事をかなえてもらうための「代金」のように見えたり、また、必死で拝んでいる姿は「お賽銭の分の元だけは取らなければ・・・」と思っているかのようだったりします。
そもそもお賽銭は、自分の煩悩や執着といったものをお金に乗せて捨て去る行為と考えるのがよいと思います。ですから金額は関係ないんです。
仏様とお話しするためには、煩悩まみれでは失礼です。ドレスコードに反するようなことです。
そして、身を調えたら、静かに合掌です。
合掌は、仏を表す右手と、衆生を表す左手を合わせる印です。
仏様も私たちも平等であり、ひとつになるということです。
あとは、仏様と対話を楽しむだけなのですが、仏像や仏画が目の前にあるならば。試していただきたいことがあります(浅草寺の観音様は秘仏なので駄目ですけど・・)。
まずは、仏像をしっかりと目に焼き付けてください。
しばらくしたら、目を閉じてください。
どうですか? 仏様の姿は残っているでしょうか。
ダメでしたら、もう一度仏様をしっかりと見つめてください。
そして、もう一度目を閉じる。
目を閉じていても、仏様の姿がはっきりと認識できるまで繰り返してみてください。
それができたとき、その仏様はもう、仏像や仏画といった物質の枠に限定されたものではなくなっています。たとえば、自由自在に大きくもできますし、いつでも、どこでも姿を現してくれる自分だけの特別な仏様です。
さあ、ゆっくりお話ししてください。
祈りとは特別なことではありません。仏様との対話です。
身口意のすべての部分を使って、仏様とつながることです。
「身」は合掌、「口」は、お経であったり真言です。そして何より難しいのが「意」です。
「プロの祈り」というのは、こういうものなのだと思います。
※ 寺報「西山寺通信」令和4年5月号の内容に加筆修正したものです。