いつもお寺を手伝ってくださっている方が、高野山での勉強を終えて帰ってこられました。
無事に、修士課程を終えられ、また学部の科目でも優秀な成績を収められたようです。宗門大学独特の科目である御詠歌も高得点だったそうですので、いずれ檀信徒の方々と一緒に御詠歌をお唱えする機会を作ることができればいいと思っています。
自分自身もかつて、役僧をするかたわら、科目履修生として教学実修科目、すなわち僧侶に必須のお経とか声明とか布教といったものを学ばせていただきました。
一流の先生に採点していただくことで、自信を得られるとともに励みにもなりました。特に厳しいと評判の声明の先生から優をつけていただいたのは、苦手意識を持っていただけにありがたかったです。
ところで、昨今では授業といった場面以外のところで、点数をつけたり、つけられたりする機会が増えています。
アンケートです。
通販での商品レビューや、グルメサイトやら、採点をつけることはなくても、参考にされている方は多いのではないでしょうか。
自分自身も、塾講師、先達、そして現在、僧侶派遣業者での法務でアンケートに関わりを持っています。
塾講師の頃は、アンケート向けの授業をしないように気を付けていました。
実際、生徒に「忖度」する授業をすれば、アンケートの点数は簡単に稼げます。
自分自身も教室数が二百以上ある塾でしたが、全体の二位を取ったこともあります。一位じゃないのがリアルですね。
しかし、本当に生徒にとって良い先生というのは、成績を伸ばしてくれる先生であり、合格させてくれる先生に他ならないわけです。
また、先達では、ツアー会社が実施するアンケートというものがありました。
四国八十八か所や西国三十三か所を回るツアーの場合、何回かに分けて結願、満願を目指す場合が多いです。
最初は、お参りの作法もたどたどしく、お経も上手に唱えられない方々も、最終回近くになると、そこらのインチキ坊主など相手にならないくらいに、上手になられます。
中には、細かい作法もあって、煩わしく思えるかもしれませんが、それこそが、ともに巡礼をする者同士の心配りであったり、気配りでのあらわれであって、単にお経がうまくなるといったテクニック的なことよりも大切だったりします。
しかし、満願の回であっても、そういったマナーが全く身についていないお客さんがいることがありました。しかも、他のまっとうなお客さんに暴言を吐くような人たちでした。
嫌われ役となるのを恐れる先達に当たり続けてきたせいで「野放し」になっていたようです。一見、ツアー会社的には正解のようですが、このような一部の迷惑な方たちのせいで、他の心からお参りをしようとしているお客さんたちが嫌な思いをして、途中で離脱していたとしたら不正解だと思います。
現在進行形のものでは、僧侶派遣会社によるアンケートです。
会社によって項目はまちまちのようですが、お経は上手だったか、身だしなみはどうだったか、中には、戒名は気に入ったかなんていうのもあるそうです。
自分の知っているお坊さんは、お経が早いというクレームをつけられたそうです。
しかし、真言宗では、葬儀のお経は速く唱えるのが習わしです。
こういうこともあり、実際には、お経を端折って、そのぶん、たっぷりと唱えているお坊さんも多いようです。
身だしなみに関しては、知り合いの寺では、阿闍梨でもない僧侶が、堂々と「紫衣」を身につけて葬儀をしています。それなりの年齢の方なので、自分なんかより、ありがたく見えることでしょう。衣の色以前に、何の資格もない人が引導(のようなもの)を渡していることが問題なのですけど・・・・。
戒名も気を遣います。
知り合いのお坊さんは「普」という文字を入れたところ、葬家は不満だったようです。理由は「普通」の「普」だから。「普く」の「普」なので、立派な文字なんですけどね。
「閑」を入れてクレームが出た方もいるようです。「閑古鳥」の「閑」なんて、貧乏くさい戒名をつけやがって、ということだったそうです。自分だったら「閑さや 岩にしみいる・・・」をイメージして、故人様の物静かなお人柄を表すよい字だとおもうのですが。
以前に、自分のところでお焚き上げをできない僧侶の方から、大量の白木位牌を預かって、お焚き上げをしたことがあります。みなさん、そのようなクレームを恐れているのか、「安全第一」の量産型の戒名ばかりでした。
うちの寺の先々代は、自身で漢詩を作るような方でしたので、寺に残っている位牌を見るかぎり、かなり「攻めた」戒名が多いです。
「親が、子の成長を願い、つけるのが命名であるのならば、子が親への感謝で贈るのが戒名である」ともいいます。
ですから自分は、遺族の思いを代表する以上、故人様に最高の戒名をつけることができるように「攻めたい」と思っています。
統計に対する警句として少し下品な表現ですが、「ビキニの水着と同じで、肝心のところは見えないものだ」というものがあります。
チャーチルの言葉とされることもありますが、実際は異なるようです。
一方で、チャーチルが本当に言ったものとしては次のようなものがあります。
「統計とは、街灯の柱と酒を飲むようなものである。照明としてではなく、支え棒として活用されている。」
昔も今も、統計の数字は、世論誘導のよい材料になっているというわけです。
たしかにアンケートも有用です。
戒名の話でも、ちゃんと、なぜ、どのような思いでそのような戒名をつけたかを、丁寧に説明していれば避けられたかもしれません。
お経や身だしなみも、結局のところ、誰が法衣をつけて、お経をあげたかといことに尽きるのかもしれません。
誠意をもって丁寧に対応をして、修法をしたのであれば、「コスプレ坊主」に負けないはずです(と信じたいです)。
現在も、例の感染者数の増減で、一喜一憂しています。
しかし、数値に振り回されずに、自分で考え、本質を見抜くように心がけたいものです。