終息?収束?

 伝聞になってしまうのですが、ある宗門大学の先生(立派な僧侶でもいらっしゃいます)が、真言宗の僧侶ならば「コロナ終息」ではなく「コロナ収束」と表記すべきであると仰っていたそうです。

 

 「終息」とは「完全に制圧すること」を指すのに対して、「収束」は「ある程度落ち着くこと」という意味です。

 疫病である以上、完全に無くなってくれた方がいいじゃないかと思うかもしれません。しかし、その先生の意図するところは別のところにあるように思います。

 

 自分が、現在進行形で受けている伝授に、佐藤隆彦先生による「疫病終息の祈り伝授」というものがあります。

 タイトルは「終息」となっていますが、その中で、繰り返されて教えていただいているのは、疫病を「やっつけるのではない」ということです。

 疫病を流行らせているのもれっきとした神様で「行疫流行神」という方です。

厄介な神様ですね。まあ、死神や貧乏神という方たちもいらっしゃいますから。八百万といわれる神様たちもバラエティに富んでいます。

 真言僧は、そんな神様をやっつけるのではないのです。まず、その神様も、そんな存在になったことで苦しんでいると見るのです。ですから、自分たちは、供養して、救ってあげるのが本義であるというのです。

 実際、普段の行の中で、仏様だけではなく神様にも感謝する部分があります(「神分」)。その中で、毎回「当年行疫流行神等」として供養しています。

 

 「終息」と「収束」ではないですが、「除霊」と「浄霊」も似て非なるものです。

この場合、浮かばれない霊がいたら、邪魔だといって取り除くのではなく、供養して本来向かうべきところへ導く「浄霊」こそが理想です。

 

 自分は経験したことがありませんが、葬儀で、強い未練や怨み等の理由から、引導を渡されることに対して激しく抵抗する亡者の場合でも、まずは必死で供養することが大切で、無理やり撥遣(はっけん)するのは最後の手段と聞きます。

 

 もしかすると、力づくで白黒つけるというのは日本人の心情としては受け容れにくいのかもしれません。

 仏教に限らず、神道でも、怨霊を鎮めて、むしろその大いなる力を「有効活用」してもらうという「御霊信仰」があるくらいですから。

 だからこそ、いっときパワーワードだった「排除します」という言葉に対して、拒絶反応を起こす人が多かったのかも知れません。

 

 白黒をつけないということでは、チェスと将棋の違いも、日本人の価値観を表しているかも知れません。

 将棋では、相手からとった駒を自分の手駒にできるのに対して、チェスではそうはいきません。これは、駒の動きの違い以前の、根本的なルールの違いです。

 これには、農耕民族か騎馬民族か、ということも影響しているのかも知れません。

 つまり、農耕民族では、たとえ敵であっても降伏したものは労働力として活用できるため大切に扱い、騎馬民族であると、降伏した敵は、食糧の無駄で、移動の妨げになるから邪魔でしかないと考えるというわけです。まあ、おおざっぱな話ですし、日本民族自体、江上波夫先生によると騎馬民族由来ということですから、聞き流してください。

 

 コロナを絶対悪として、現状を最低最悪のものとして否定するのではなく、この状況だからこそ気づくこと、得られるものというのも何かあると信じたいです。

 

 "No Rain, No Rainbow"

 雨が降らなければ虹は出ない、ということわざです。

 ただし、ここでいう雨の後の、素晴らしい虹というのは自然発生的なものではなく、私たちの心次第で作り出すものなのかもしれません。