俗に、IQが20違うと会話が成り立たないなんていう話を聞きます(実際には違うそうですが)。
それよりも、価値観が大きく異なる方が会話が成り立たないように思います。
僧侶の世界の価値観というのも、一般世界の価値観とは少し違っているのかもしれません。
というか、俗世間同様に名誉や財産こそ人の評価基準だ、なんていう坊さんは願い下げでしょうし、世間一般の幸せを欲するのならば、家業として寺を継ぐ人は別として、わざわざ在家から飛び込む世界ではないと思います。
自分が役僧をしていた高野山の塔頭では、個人加行をされる方を受け入れていました。山内には、専修学院や真別処といった集団加行をする道場もあるのですが、年齢制限があります。そこで、年を召した方なんかは必然的に、個人加行をさせてもらえる道場を探さなくてはなりません。
そこで、修行をしていた方がこんな不満をこぼしていました。
その寺では朝夕べの勤行前(何分前だったかは忘れました)には、加行者が鐘を叩いて合図をします。その方が鐘を叩いた時に、ある役僧さんから少し時間が早すぎると注意されたそうです。
「そんな何分も早いわけじゃなかったんですよ。その人によると、鐘の音は他の寺の人たちも聞いているんだから、でたらめなことをしたら、この寺が笑われるみたいなことをいうんですよ。多分ただのいじわるですよね。」
・・・・え?自分はその役僧さんと全く同意見なんですけど。
自分が寺にいたときも、他の寺の鐘の音を聞いては「さすがに○○寺さんは、正確に鐘を打つよね。NHKの時報並みだよね。」とか、「△△寺さんの鐘の打ち方はきれいだよね。」とか話していました。
そして、自分の寺の行者さんの鐘の叩き方を聞いては、「この行者さんは丁寧な叩き方をするから、きっと丁寧な行をしているんだろうな」とか「えらく音が乱れているな。大分つかれているのかな。」などと思っていました。
あるとき夕勤を知らせる鐘が、あまりに雑で速く打ち鳴らされたので、誰の仕業かと思い、見に行ったところ、上綱(住職)さんでした。行者が叩くのを忘れたので、自ら叩いておられてました。道理でイライラが出ていたはずです。すみません、自分たちが気づいて鳴らすべきでした・・・。
別の修行者さんの話です。
密教では、仏様への供養として樒の葉を用います。何枚使うかとか並べ方などは流派によってまちまちですが。
修行中は、樒の束を与えられ、そこから一座ごとに葉をとって荘厳します。
あるとき、寺の方から「○○さんってご存じですか?その方、樒を全部枯らしてしまったんですよ。」という「御注進」が入りました。別の役僧さんにこっぴどく怒られたそうです。
その方が、行を終えてから当人にお会いすると、その話になって「▢▢さんにものすごく怒鳴られたよ。あの人も色々と大変みたいだからね。」となぜか上から目線で、あまり意に介していない様子でした。
行者は、使う樒を大切に管理します。水を毎日変えるのは当たり前ですが、下準備として、枝を切り分けてそれぞれが水を吸い上げることが出来るようにして長持ちするようにだったり、色々工夫します。
行では、ただ数枚の樒の葉を、豪華な色花や気高き香などに見立てて献じます。そして仏様への大切な供物であるとはいえ、植物のいのちを犠牲にしているわけです。それを大切にできないというのは修行以前の問題です。だからこそ、役僧さんがわざわざおおごととして、報告してきたわけです。
たしかに修行をするにあたっては、支具料というものを納めています。しかしそうであっても、葉を使う権利を得たわけではなく、あくまでも使わせていただくわけです。
御二方とも、有名企業の重役さんとか会社経営者といった社会的地位の高かった方々だそうです。そういう方たちが長年築きあげてきた御自身の価値観を壊すというのは、行そのものよりも大変で辛かったかもしれません。そういう意味では、低空飛行がデフォだった自分はよかったのかも知れません。
「無分別」
一般の用法としては、あまり良い意味ではありませんが、仏教では最高の境地です。
自分と他人とを分けて考えない。
なにも自分を無くせ、とまではいいません。
但し、自分の価値観だけに固執しないで、他人の価値観も尊重する。
なかなか難しいです。
瞑想をしているときは、一時的であるにせよ、そんな状態になったように感じるのですけど。
意識しても難しいのに、意識しなくてはなおさらです。
まずは、意識して心にとどめるようにしたいものです。