占い ①

 先輩の僧侶がこんなことを仰っていました。

 「在家出身で、密教僧になろうというのは、『拝み屋』か『人生一発逆転を狙っている奴』がほとんどや。」

 

 言葉は乱暴ですが、実際そういう方が少なくないのは事実のようです。

 『拝み屋』さんではないですが、占い師さんが密教の修行によって新たな力を得たいといって門を叩くのは珍しくないようです。ただ単に「密教僧」という肩書で箔付けをしたいだけの方もおられるようですが。

 

 拙寺では正月に「星まつり護摩法要」を行っています。以前、ある僧侶の方(得度しただけの方のようです)が、お手伝いをしたいと仰ってくださったようです。

 その方は西洋占星術師のようで、星まつりと占星術を混同していたのか、星まつりの修法を自分の占いに活用できるのではないかくらいに思っていたようです。その意を見抜いた、その方の師僧さんが、「お寺のお手伝いというのは、掃除をしたり下座行をするってことだよ。」と仰ったところ、挙げた手を下ろされたそうです。

 

 密教でも「宿曜経」に基づく占いが存在しますし、「星まつり」自体、それと密接に関係しています。ただ、占いに「全体重を預ける」生き方を肯定するものでは絶対にありません。

 

  中国の昔話だったと思うのですが、ある男が占い師に寿命がわずかであることを告げられます。どうせすぐに死ぬのなら、ということで男は財産を困っている人の為に使い果たします。またある時は、川でおぼれている子供を自分の命を顧みずに助けたりします。そして、いよいよ寿命が尽きる時が来たのですが、一向に死ぬ気配がありません。その後、先の占い師に会ったところ、驚かれるとともに「あんた、人を救ったのではないか?」といわれます。その通りだと伝えると、その徳によって運命が変わったのだと言われて、納得するというものです。

 

 この話は、占いなんてあてにならないという文脈で使われることもありますが、徳を積むことによって運命は変わると考える方が夢があるような気がします。

 

 『陰録(いんしつろく)を著した袁了凡は、中国の明代の人ですが、はじめは宿命論者だったところ、ある高僧との出会いから、徳を積むことで運命を変えられることを知り、結果、当初占い師から告げられていた運命を覆していきました。

 彼は、その著書の中で「功過格款」という積徳の査定表のようなものを示しています。たとえば、人の命を救うと100点という高得点のものから、悪口を言われても我慢すれば3点といったものまで様々です。

 

 いやいや、「憎まれっ子世に憚る」「悪い奴ほどよく眠る」の方が真理で、「正直者が馬鹿を見る」だけじゃないの、と思われるかも知れません。

 

 また、見返りを求めて徳を積むっていうのは、本当の純粋な徳ではないように感じるかもしれません。

 

 でも、それでもいいのだと思います。心に仏性があるといっても、仏そのものではない私たちは、意識して仏様の真似をしなくてはなりません。仏様の御褒美を期待して、仏様のようにふるまうことから始めるのもいいのではないでしょうか。

 ご褒美がもらえないときでも気にしてはダメです。鈍い上司なんかと違い、仏様はすべてお見通しで公正に査定していますから安心しましょう。

 そんなときは、「マイレージ、たまってるな」と思えばいいだけです。

 

 大分、話がそれてしまいましたが、占いが絶対だと思いこみ、ご自身の可能性を否定してしまわないように願います。