如実知自心

 最近、ヤフーニュースでは、難読漢字の問題と心理分析の問題ばかり目にしているような気がします。

 

 前回、私たちの心には仏もいれば、鬼もいるというお話をいたしました。

仏も色々な方がおられるでしょうし、鬼も色々な種類が住んでいることでしょう。

さながら心の中に曼荼羅が広がっているようなイメージでしょうか。

曼荼羅でも外縁には鬼たちが整列していて、仏法の為に汗を流しています。

 

 残念ながら、私たちの心の中の曼荼羅は、整然としたものではなく、ややもするとただの「地獄草紙」になってしまいがちです。

 

 そういう意味では、自分の心の中では、どんな鬼が強くなりそうなのか、どんな仏様を大きく育てることができそうかということを理解することは有用だと思います。

 

 「衣食足りて礼節を知る」ではないですが、何の不足もなく過ごしている場合、自分の中の鬼はあまり暴れることは無いですね。鬼が活躍するのは切羽詰まった時ではないでしょうか。

 

 自分が「四度加行」という修行中、肉体的にはきつかったですが、修法自体は楽しくて仕方がなかったです。むしろ辛かったのは修法以外、はっきり言うと対人関係でした。

 自分とペアを組んでいた行者さんが、「俺は何でも知っている」という態度の方でした。実際、自分よりも知識は遥かにお持ちだったのだと思います。

 以前にも書きましたが、真言宗の修行で大きな比重を占めているのが「念誦」です。

長い陀羅尼や真言をひたすら念珠を繰りながら唱えるわけですが、中には不動慈救呪を千回というように、一つの真言だけで一時間近く唱え続けるものもあります。

 

 あるとき、その行者さんが「のたまいました」。

「あんた、真面目に千回とか唱えてるの? 『千回』っていうのは沢山という意味でしかないんだよ。だから自分は百回とか21回とかにしているんだよ。」

 それを聞いた時、すごく嫌な気持ちになりました。

自分が損しているなどと思ったわけでは勿論ありません。

ちゃんと行をしていない人がいること。

そんな人が自分の近くにいて同じ空気を吸っていること。

そんな人が馴れ馴れしく自分に話しかけてきたこと。

それを聞かされことによって、自分までが汚泥にまみれたような、なんとも嫌な気持ちになりました。

 

 でも、行はひとそれぞれのものです。その人が手を抜いた行をしようと、自分にとっては関係のない話です。自分は自分がすべき全力の行に取り組めば良いだけです。

 

 今なら冷静に判断できます。

 しかし、睡眠時間も削られ、体力的に追い詰められた状況ではそうはいかなかったわけです。

 そんな状況だからこそ、自分の中に住んでいる、気を付けるべき鬼に気づかされたのだと思います。

 自分の場合は「自分の正義を他人にも強制する鬼」が要注意のようです。

 加行中に自分の心の中の鬼を意識する経験は「行者あるある」のようです。むしろ初心の行者にとっては、それこそが大事な目的なのかもしれません。

 

 先日(ちょうどコロナの第一波が終わった時期です)、伊豆高原での回忌法要に出かけました。伊豆急の車内で、一人の女性が何度も行ったり来たりしています。

そのうち、電車が何度も扉を開閉したり、駅で予定以上に停止したりしました。不思議に思っていると、こんな車内アナウンスが流れてきました。

 「・・・車内では大きな声で話されるなど、会話は控えめにお願いいたします。」

 どうやらその女性は運転席に乗り込んで、かかる注意を促すように要求していたようです。これが噂の「アレ」(『警察』という単語を当てたくないので指示語で失礼します)かと納得しました。

 

 タイトルの「如実知自心」とは文字通り、自分の心をありのままに見つめることです。

 普段は美しく化粧をしやすい心ですが、窮地ではそんな余裕もなく、醜い部分がさらけ出されます。

 

 こんな難しい時期だからこそ、自分の心をしっかり見つめて、「素顔の心」を美しくする訓練をしたいものです。