WITH 鬼

 終わりの見えないコロナ禍に鬱々とした気分の方も多いことでしょう。

 いくら「with コロナ」などといわれて、コロナウィルスとうまく付き合っていけ、と言われても、確立した治療法やワクチンもない現状では、お付き合いしたくはないものです。

 

 この体 鬼と仏が あい住める

 

 これは、ある死刑囚が詠んだものだそうです。

 何も、犯罪者だけに当てはまるものではありません。ほとんどの方は、心の中に鬼と仏の両方が住んでいるのではないでしょうか。

 「いえいえ、自分は仏100%です」と仰る方は、本当に素晴らしい方か、おめでたい方のどちらかでしょう。

 

 時として、自分でもびっくりするくらい素晴らしいことをしたかと思ったら、あとで自己嫌悪に陥るような酷いことをしてしまうこともある。それが普通の人なのではないでしょうか。

 

 折角の人間界なのだから、鬼なんかインプットされずに生まれてきたかったと思うかもしれません。でも、鬼がいるからこそ修行になるのです。時として、心の中の鬼が勝つこともあれば、仏が勝つこともあります。生まれつき強い鬼が住んでいる方もいるでしょう。鬼が勝った時は、次こそは負けないようにしようと反省して決意すればいいのです。むしろ、それが大事なのです。

 

 勤行では、真っ先に懺悔文を唱えます。 懺悔なくして、あれこれ拝んで、祈願してなんていうのはおかしな話です。  

     我昔所造諸悪業

     皆由無始貪瞋癡

     従身語意之所生

     一切我今皆懺悔

 自分も毎朝、「僧侶用」の懺悔ともいえる密厳院発露懺悔文をお唱えしています。唱えながら、鬼に負け続けていることが恥ずかしくなりますが。

 

 そういう意味では、鬼は私たちの心を鍛えてくれる大事な存在といえるでしょう。

 凡夫である自分たちには、一生鬼が付きまといます。それをうまくコントロールしなければ、鬼にのっとられてしまうこともあるでしょう。

 罪を犯し続けると、少しずつ罪の意識が薄まっていくように、鬼に負け続けるとついには鬼の存在を意識しない、ついには本人が鬼そのものになってしまうでしょう。

 

 そうならないための薬であり、ワクチンであるのが宗教なのでしょう。

 懺悔こそが宗教であると言い切っておられる大徳もいらっしゃいます。

 

 『涅槃経』というお釈迦さまの最晩年の教えを示すお経の中にこのような文があります(「懺悔」ではなく、「慚愧」という表現ですが)

   慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。

   慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。

   慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。

   無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。

 

 懺悔できるからこその人間であり、懺悔こそが救いの道ということです。

 たとえ悟ることが出来なくても、あきらめずに少しでも「よりよい自分」を目指すことが「菩提心」であり、仏さまが私たちに望んでおられることなのでしょう。

 

 うまく鬼と付き合ってまいりましょう。