見るのではなく 観る

 ある阿闍梨さんから聞いたお話です。

 加行(修行)中に、指導僧から怒鳴られたそうです。

 「あなた!  仏様が見えないの⁈ ほら、そこの五鈷鈴のところにいらっしゃるじゃないの!」と。

 

 自分も、一般の方から「お坊さんって、色々なものが見えるんですか?」と尋ねられたりします。「いえ、見えません。」というと大抵の方はがっかりされます。

 

 自分自身、これで良いのかと悩んだこともあります。今は解決済みです。

 

 あるとき、有名な祈祷系の大徳さんの伝授を受けたときのことです。当然、その方なんかは「見える」方だと思っていたのですが、

 「私は見えないですよ。ただ、行をしているときは感覚が鋭くなります。」

と仰いました。ものすごく意外でした。

 

 また、別の伝授の時です。こちらは高野山の高名な先生のものでしたが、「道場観」といって仏様が集まる場所をイメージするところで

 「なかなか、うまく(仏様のいる世界が)目の前にあらわれないこともあるかと思います。ただ、あきらめてはそれでおしまいです。見えなくても、そこにいらっしゃるかのように一生懸命ご供養することが大事です。」

とおっしゃっていただいたのは救いでした。

 

 自分たちは、行の中でいろいろな光景をイメージします。そのことを「観相(想)」と言っています。

 「見る」というのが、視覚の働きであるのに対して、「観る」というか「観じる」というのは、智慧を含めたあらゆる感覚を総動員する働きです。自分たちに求められているのは、漫然と「見える」ことではなく、徹底的に「観じる」ことなのです。

 

 たとえばさきに挙げた「道場観」などでは、仏様ごとにどのような場所で、どのようなお姿で、周りにはどんな眷属がいて・・・等と細かく書かれています。それを完璧に観じるのは結構大変だったりします。

 それを手助けするのが仏像であったり、きれいな荘厳であったり、お香の香りだったりするのです。

 

 このことは、僧侶の行法だけにあてはまることではないでしょう。

 葬儀や回忌などの法要に参加する檀信徒さんについてもあてはまるのではないでしょうか。

 残念ながら、法事や法要が楽しみという方は少ないと思います。延々と、意味の分からないお経やら真言を聞き続けるのは苦痛という方もいらっしゃるでしょう。

 でも、そこに仏様や、大事な方がいらっしゃるのを観じることができていれば、退屈ではない、素敵な時間になるのではないでしょうか。

 

 自分が高野山でお世話になっていた塔頭の前官さんは、法事をするときの僧侶の心得として、参列者の方たちに故人の声とお顔を思い浮かべるように伝えなさいと仰っていたそうです。

 

 また、別の先輩からは、お経は、美しく唱えなさいと言われました。何故なら、参列者にとって、それこそが仏様の声であるように聞こえなくてはならないのだからと。

 

 仏様や故人様がそこにいらっしゃる。そして喜んでおられる姿を観じていただけるような法要ができればと思います。