回忌法要②

 昨日は、檀家さんの25回忌の法要でした。

 東京のお寺でお手伝いをさせていた時には、そんなに年数を経過した回忌法要を行ったことはありませんでした(たしか17回忌が最高だったと思います)。自分が参列した法事では、祖父の50回忌が最高です。大体、33回忌か50回忌を区切りとして「弔い上げ」をすることが多いと思います。

 

 ところで、最近は「戒名はいらない」「葬儀はいらない」「墓はいらない」………変化球的なものでは「葬儀はやっても坊主はいらない」など、「いらない」を主張する本が溢れています。

 先日も、有名な「仏教原理主義者」の先生の本を拝読いたしました。そこでは「回忌法要をいらない」理由が熱く語られていました。

 

① 回忌法要のうち、49日はインド仏教の影響である。そして、インドの考え方では49日目には何らかの生き物に再生する。だから、49日以降の追悼は無意味である。

 

② しかし、日本人の感覚として、それでは短すぎると感じて、その後の回忌が増えていった。3回忌までは儒教の影響。33回忌や50回忌で弔い上げ等というのは神道の考え方。33回忌や50回忌を過ぎた仏は、「イエのホトケ」から、「ムラのカミ」に昇華するという考えに基づくものであり、仏教とは全く関係ない。

 

③ 回忌法要などというものがあるから、「霊のたたり」なんていう考えが起こる。霊感商法に利用されるのだ。

 

 自分程度の頭ではちゃんと理解できていないのかも知れませんが、大体こんな感じでした。

 

 まず、前提として「仏教」って何?というところから確認したいと思います。

ある、真言宗の大徳の定義に従いますと

⑴ ブッダの教え

⑵ 仏になるための教え

⑶ 仏であることに気づく教え

です。⑵は大乗仏教、⑶は密教的な定義づけといえるでしょう。

 

 自分は、仏教である以上、⑵の要素は外してはいけないと思います。

 そして、死んで仏になるのではなく、生きているうちに仏となるように指針を示すのが仏教であると思います。

 そういう意味では、歴史的人物であるブッダが語った内容そのものではなくても、仏教と言えると思います。

 たしかに日本の仏教は、神道あるいは神道以前の原始的な祖霊信仰の影響を受けています。「ホトケ」から「カミ」になるという考え、そして彼岸の行事自体がその「カミ」を迎えたり、送ったりする意味を仏教的な意味づけを加えて取り込んだというのは民俗学的には常識です。

 しかし、オリジナルのインド仏教とは異なることの一点を以て、「非仏教」よばわりするべきではないのは前述の通りです。

 

 実際、親しい身内を失ってはじめて仏教に興味を持たれる方もおられます。特に都会では核家族化が進み、「老」「死」が身近に感じられなくなっている方も多いように思います。そういう方にとっては、葬儀や回忌法要が、お釈迦さまにとっての「四門出遊」と同じ契機になるのではないでしょうか。

 

 たしかに「回忌法要をしないと駄目」、という圧力をかけるような僧侶はいただけません。回忌法要をしないと、ご先祖様が浮かばれないとか、祟るなんていうのはあり得ないです。そういう坊さんは、葬儀で何をしていたのでしょうね。自分たちは、故人様に「成仏」してもらうように色々な作法をしているわけです。決して安くはないお布施を頂いてるのに、のちのち祟るような霊を作り出しているって自分で認めているようなもので恥ずかしいですよね。

 これについては以前の『回忌法要』でも書かせていただいたので、詳しくは述べませんが、私たちの回忌法要というのはというの、仏様の世界で修業しているご先祖様たちにエールを送っているようなものです。ちゃんと仏様になられているのですから、回忌法要を省いたり、忘れたりしても祟るわけがないです。ましてや可愛い子孫に対して。

 

 輪廻転生についても少しふれておきます。

成仏したら輪廻しないはず、と考えるのが論理的かもしれません。でも、大乗仏教ではそれで終わりません。自分だけが迷いのない世界である彼岸に渡ってハッピーというのではだめなのです。みんなで彼岸に向かいましょうというのです。それゆえに「大きな乗り物」という名を冠しているのです。仏になってもなお、衆生を救うために、この面倒くさい娑婆の世界に戻ってくることもある、というか仏だからこそ、そうせざるを得ないということもあるわけです。浄土真宗さんの「還相廻向」というのも同じような意味合いかと理解しています。

 せっかく回忌法要をしても、転生してこの世に戻っているのなら無意味と考えるかもしれません。でも、こちらの応援が耳に届いていないとしても、全く無力ではないのではないでしょうか(テレビでひいきのチームを応援する意味もないことになりますよね)。たとえとして適切かどうかわかりませんが、「バタフライ効果」なんてのもあります。アマゾンでの蝶のはばたきが、遠く離れたテキサスで風を起こすというものです。

 思いがけないラッキーに恵まれるときというのは、実は知らない誰かの祈りのおかげだったりするのかもしれませんね。

 

 ともあれ、義務や強迫観念から回忌法要をする必要はないと思います。負担のない範囲でされるのがよろしいでしょう。