仏>霊? 霊>仏?

 あるお寺の懇親会に参加した時のことです。

 

 たくさんのお弟子さんを抱えているお寺で、そのときもベテランの老僧から、得度したばっかりの新発意(しんぼっち、しんぼち=なりたてのお坊さん)さんまで20名ほどは参加されていたと記憶しています。

 

 その中のお一人がみんなの前でこんな話をされました。

 「あそこ(師僧の寺のこと)に行くと絶対眠れないんですよ。だって、あそこには(霊が)居ますよ。怖いし、気持ち悪いんですよ・・・・」

 

 多分、周りの方は聞き慣れているんでしようね。そして、さすがに皆さん大人ですね、上手に聞き流しておられました。

 

 でも、その方は満足しないようで、いろんな席を回ってはその話を繰り返します。

 ついに、自分の近くでその話が始まりました。

 すみません、イラっとしてきました。自分はそれほど大人じゃないので。

 そこで、こう申し上げました。

 「そこ(あなたの師僧の寺)に霊がいるかもしれませんが、仏様もいらっしゃいますよね。霊と仏様とでは仏様の力の方が強いから、何の心配もないのではないですか?そう思えないなら、お坊さんではないんじゃないですか。」

 あまり納得はしてもらえなかったようです。

 結局「見える」ことの自慢がしたかっただけのことかもしれませんね。

 

 「霊」もしくは「霊魂」の存在を認めるか否かは、仏教の宗派によって統一されていません。

 よく「仏教=お釈迦さまの教え」であることを厳格に求める方は、お釈迦さまは「霊」について何も述べていない。むしろ「無我」を強調しているのだから、死んだあとに何かが残るわけがない・・・・云々と口にされます。

 

 しかし、実際にはお釈迦さまは「霊」をはっきりと否定しているわけではなく、むしろ存在を肯定しているように推察される記述もあるようです。

 また、「無我」というのも、訳し方が悪かっただけで、本当は何もないのではなく、固定した何かがあるわけではないという意味で「非我」というべきであるとおっしゃっている方もおられます。

 

 わが高野山真言宗では、宗派として「霊」を肯定しているそうです。

 自分も、葬儀の際には肉体から少し離れたところに存在する故人様の霊というか魂に向かって、戒を授けて、灌頂をして密厳国土へ旅立たれるように作法しているわけです。そこに何もないのに色々と印やら真言を唱えているのなら、ただのイタい奴ですよね。もっぱら遺族や参列者に対してのパフォーマーとしてならアリなのでしょうが。

※ 葬儀のイメージは、「漫画なんか」と思われるかもしれませんが「阿闍梨蒼雲 霊幻怪異始末3巻」の35頁から76頁が参考になるかもしれません。

 

 霊を肯定するか否定するかは別として、霊を肯定するのに仏を肯定できない。できたとしても仏の力、優位性を肯定できない。その程度の信心なら密教僧であるべきではないように思います。仏様への絶対的な信頼をしていない坊さんなんかに葬儀されたくないですよね。