最高の荘厳 最高の終活

 先日、お参りに来られた方が

「なぜ、お寺にはきらびやかな飾りがたくさんあるんですか?」

とお尋ねになりました。

 

 お寺の飾りつけを総称して「荘厳(しょうごん)」と言います。

 たとえば、上からぶら下がっている「幢幡(どうばん)」は元々は布製の幡を集めたものでしたが、今では金属製や金箔を貼った木製の六角形や八角形のものが多いようです。また、導師が座る場所や、仏様の上には「天蓋(てんがい)」というものがぶら下がっています。元々日差しの強いインドで、高貴な方には従者が常に傘を差し伸べていたことの名残だそうです。

 また、壇の上にも「宝塔」であったり、とくにウチは真言宗ですので密教法具がずらりと並んでいます。

 もちろん、そういった「キラキラしたもの」だけではなく、燈明や香炉、お花などの供物も荘厳に含まれますし、最広義の荘厳には、お経や僧侶の立ち居振る舞いまでも含まれます。

 

  なぜ、そのようなものが必要なのでしょうか。

 まずは、お経にそうしなさいと書いてあるからです。

 たとえば、ウチで毎朝お唱えしているお経に「薬師瑠璃光本願功徳経」がありますが、その中にも「仏像を、清浄な場所を用意してお祀りしなさい。花を飾り、お香を焚いて、色々な幢幡を飾り付けるなどの荘厳をすれば」諸々の願いが叶い、災厄から免れると書かれています。

 

 次に、仏様をお招きするイメージを高める意味があります。

 以前にも書きましたが、密教の行法における仏様の供養は、来客をもてなす作法になぞらえています。仏様をお迎えするのにふさわしい道場を作り、車でお迎えに行き、到着されたら足を洗って、席へご案内してお食事、といった風にです。

 もちろん、実際にそうするわけではなく、印を結び、真言を唱えて、そのような光景をイメージする(観相)わけです。

 中でも、最後の観相が大切ですが、難しいです。でも、それが出来ないのでは、たしかに印を結び、真言を唱えているという外見は満たしていても、「おままごと」に過ぎないと言われました。

 すごい行者さんなら、どんな山奥でも即座に仏様の世界を眼前にイメージできるのでしょうが、自分は無理です。そういう意味で、仏様の世界を象徴する数々の荘厳は仏様をイメージするのに大きな役割を果たしています。

 

 また、お参りされる方に、仏様を近くに感じていただくためにも大切でしょう。

 昔は、お寺こそ最高の文化と技術が結集した場所でした。今では、お寺よりも立派な建物は沢山ありますし、面白い場所だって沢山あります。

 しかし、今でも「非日常」を提供するという役割は果たすことができると考えます。日常に追い回されて、色々とため込んでしまったストレスを置きに来る場所、それが現代のお寺の存在意義のひとつでしょう。

 そういう意味では、「非日常」を演出する上で、荘厳は役割を果たしているでしょう。

 

 ところで、ウチの護摩堂の入り口には千羽鶴が飾ってあります。自分にとってはこれこそ最高の荘厳です。

 

 ちょうど元号が平成から令和にかわろうとしていたときです。

 ある方から、元号が変わるのを機に、先祖に感謝の気持ちからの供養をしたいとのお話がありました(〇回忌とかではなくです)。その方は、以前は檀家さんだったのですが、娘さんたちが嫁いでしまい、家が絶えたのを機に永代供養として御位牌を預からせていただいている方でした。

 当日は、高齢の三姉妹の方が一堂に集まられて法要をさせていただきました。

 帰りがけに、姉妹の中で今回の話をして下さった方が

 「私も高齢なのでたびたびお参りに来ることはできなくなると思います。それでご先祖様が寂しい思いをしてはいけないと思い、千羽鶴を折ってきました。これを飾っていただくことはできないでしょうか。」

とおっしゃいました。そうです、護摩堂に飾らせていただいている千羽鶴です。こんな素晴らしい気持ちのこもった荘厳こそ仏様への最高の荘厳でしょう。もちろん、喜んでお飾りさせていただきますと申し上げると、安心されたように笑顔で帰って行かれました。

 

 後日談です

 それから数か月後、その方のご主人がおいでになりました。そして、奥様が亡くなられたとの報告をいただきました。あんなに元気でいらしたのに、と驚くべきところでしょうが、虫の知らせ以上のことが起こっていましたので、あまり驚きはしませんでした(こういう話が苦手な方もいらっしゃるでしょうから、ここでは省きます)。ただ、二度とあの素敵な笑顔を見ることが出来ないのは悲しく思いました。

 

 さらにご主人はこんなこともおっしゃってました。

 自分がいなくなったらご主人一人で困るだろうということで、数年前から料理とか洗濯とか家事を「伝授」して下さっていたそうです。

 いまは「終活」という言葉が流行っています。その多くは葬儀をどうするか、お墓をどうするか、戒名はどうするといったものが中心のようです。それに比べると、この方はつくづく「最高の終活」をされたのだと、ただただ頭が下がる思いでした。

 

 いくら、立派なお寺でも、そこにいる坊さんがダメダメでは台無しです。

先ほども書きましたが、僧侶の立ち居振る舞いも、大事な荘厳です。多くの方の思いに支えられているこの寺にふさわしくあらねば、と反省させられる出来事でした。