祈願

 本日も、お参り下さりありがとうございます。

 花祭りに、護摩供養。お釈迦さまはびっくりされているかもしれません。

というのも、お釈迦さまは色々な祈願を禁止していました。

 私たち真言宗の「お家芸」である真言もまじないのたぐいとして原則として禁じられました。へびよけの呪文などは例外でしたが。

 護摩についても「護摩で覚りが開けるくらいなら、鍛冶屋さんたちはみんな覚りを開いているよね(笑)。」と否定していたようです。

 

  自分が高校受験の時のことです。志望校が東寺にある洛南高校だったため、親のすすめで東寺で合格祈願をして頂くことになりました。本人としては、神頼み、仏頼みをしたにもかかわらず、中学受験に失敗したこともあり、神仏を頼みとしなくなっていました。そのときも、そんな時間があったら英単語を少しでも覚えた方が合格に近づく、等と文句を言っていたように思います。ともあれ、祈願をしていただきました。どんなお経だったのか、どんな作法だったのか、今だったら興味津々ですが、全く覚えていません。

 

 合格発表の日です。電話がかかってきました。

なんと、祈願をしてくださったお坊さんからでした。

「おめでとうございます。合格です。」

 びっくりしました。わざわざ合格発表を見に行ってくださった上で、ご連絡くださったのです(受験番号は祈願のときにお教えしてました)。

 合格の喜びよりも、そこまで親身になって祈願してくださっていたお坊さんの気持ちが、ただただありがたかったです。

 正直、小さなお寺なら別として、東寺のような大きなお寺であれば、沢山の方が祈願にいらっしゃるでしょう。ですから、そのときは一生懸命拝んでくださるかもしれませんが、そのあとは気にも留めることはないだろうと思っていました。でも、そうではなかったのです。

 若いお坊さんでしたが、あれから〇十年。ものすごい大徳さんになられているかもしれません。お名前も存じ上げませんが、自分にとって、かくありたいと尊敬しつづけている僧侶のおひとりです。

 

 以前にも書きましたが、祈願とか加持というものは、仏様と願主をつなぐものです。そういう意味では行者は主役ではありません。いかに上手に見栄えよく次第をこなすかということよりも、願主の気持ちに寄り添って一生懸命に祈ることが大事なのでしょう。願主の痛み、喜びを共有して祈ることが大事なのでしょう。

 

 今日おいでになった方の願いはほとんど一つだと思います。今日の護摩だけではなく、日々祈り続けてまいります。

 

※ 令和二年花祭りでの法話などを加筆修正したものです。