一、声 二、顔

 コロナの影響は法事にも及んでおります。

遠くからの親戚は呼ばずに、ごくごく身内で済ませたりという例も多くなってまいりました。

 そんな中で、近く行われるはずだった一周忌を延期してほしいというお話がありました。檀家の方ではないのですが、縁あって葬儀、七七日、初盆とお伺いしている方です。施主様がご高齢であることもあり、自分もその方がよろしいでしょうということで承諾いたしました。

 その後、その日は、せめて施主様ご自身でしっかりお経をあげたいので、何かお経のCDか何かないでしょうかとのお問い合わせが、葬儀社さんを通じてありました。

 あいにく、自分の手元には「プロ用」のものしかなかったため、葬儀社さんに檀信徒向けのお経のCDを手配してくださるようにお願いしました。

 すると、葬儀社さんより連絡があり、施主さんは自分のお経をリクエストしているということでした。結局、急遽、在家向けの勤行次第にそって読経したものを録音し、その音声ファイルを葬儀社さんに送付してCDに焼いて渡してもらうように手配いたしました。

 さすがにみっともないものをお渡しできないので、一度自分で聞いてみました。

 自分のイメージしている自分の声ではありませんでした。

 自分の肉声と録音した声は一致しません。何故なら、自分の声は骨伝導で伝わるのに対して、録音した声は空気振動で伝わっているからです。そういう意味では、録音した声の方が、他人に聞こえている自分の声に近いということです。

 声を仕事にされている方は、そのことを良く分かっておられて、録音した声を確認しつつ、発声練習したりするようです。

 自分も定期的に自分の声を確認しようと思いました。

 

 伝法灌頂を終えた後、大阿闍梨様から「一番大事なことを伝えます。」と言われて、どんなすごいお言葉を頂けるかと思っていたところに、賜ったのが「坊さんにとって一番大事なのは声、二に顔や。」というものでした。

 

 声が良いとか悪いということではありません。相手が悲しみに打ちひしがれているときには、心を癒すようなお経を、落ち込んでいるときには元気が出るようなお経を上げなさいということ。そして、顔については、男前とかブサイクとかいうことではなく、相手が安心できるような表情で寄り添いなさいということです。たしかに僧侶にとって、難しい知識を詰め込むよりもずっと大事なことでしょう。

 

 「和顔愛語」というのも同じですよね。にっこり笑顔で真心のこもった言葉をかけるということ、人にとって一番大事なことかもしれないですね。

 動物の中で人間ほど表情筋が発達していて様々な表情ができる動物はいないそうです。言語については言うに及びませんね。折角、人間に与えられた特別なものを上手に使いこなすことも、人間として生を受けた私たちにとっての修行なのかもしれませんね。